スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「生き物を飼うのは可哀想」と言われて悩む次男と話したこと

怒りながら帰ってきた次男

昨日、帰宅した小5次男が怒っていました。

私の顔を見るなり

「(1学年下の子)くんが!メダカを飼うなっていうんだ!」

とまくしたてる次男をなだめながら話を聞くと…

 

学校にあるメダカの水槽にいたずらをしていた低学年の子に生き物係の次男が注意したら、その子たちが聞いてくれず次男が腹を立てた。

その姿を見てそばにいた子が

「そもそも自然にいる生き物を閉じ込めて飼っているのがおかしい、可哀想だ。メダカが大事なら自然に帰してあげたほうが幸せなのに」

と言ったようです。

 

次男はそれに憤ったけれどうまく反論もできず、苛立ったまま帰ってきたようでした。

 

川に帰ったら幸せなのか

まず最初に考えたのが、これ。

学校で今次男たちが面倒を見ているのは、先生方が観察のために用意してくれたメダカです。(おそらくは人工飼育化で孵化したもの)

その水槽のメダカを今、近所の川に流したら待っているのはどんな環境だろう。

 

うんうんと考える次男。

メダカを食べる生き物は何がいるだろう、と二人で考えます。

 

肉食性のメダカより大きな魚、ヤゴなどの虫、鳥、カメ…

たくさんいるだろうねえ、水質も一定ではないよねえ…

次男は「食べられるかもしれない、餌も見つからないと思う、幸せじゃないと思う」と。

「でも広いよ、仲間もたくさんいるかもしれないよ」と問いかけると「うううううーーん」と頭を抱えていました。

 

水槽の中は幸せではないのか

次はこれ。

「餌も必ずもらえるし水も替えてあげてる」

「でも閉じ込めてる」

また頭を抱える次男。

 

この2つの想定で見えてきたのは「幸せって何だろう」っていう次の問いでした。

 

君は今、幸せ?

親として子に直球で問うのは若干抵抗のある疑問ではありましたが、通らずに進めないと思ったので次男に聞きました。

「うん」と頷く次男に尋ねます。

「うちは6人家族で一人ずつの部屋もない狭い家で、君らはそこでぎゅうぎゅうくらしてる。それをよその人からは『あんな狭い家で可哀想に、もっと広い家ならもっと幸せに暮らせるかもしれない』と言われるかもしれないけどどうだろう」

考え込む次男にもう一つ質問してみます。

 

「去年の君と今の君と、どっちが幸せ?」

「今だよ!」と即答したので理由を尋ねると、彼なりに色々と友人との関係が改善したことや変化したことを挙げてくれました。

 

「お兄ちゃんが今幸せかわかる?」「わかんない」

「君とお兄ちゃんと今どっちが幸せかは?」「どうやって比べていいかわかんない」

「違うおうちだったら幸せかは?」「引っ越してみないとわかんない」

 

「幸せ」は「わかんない」だから

君の、今と前しかわかんないし比べられないねえ。わかんないねえ。

「メダカのことも、わかんないねえ」と次男。

 

そうなんだよね、結局メダカがどうだったら幸せかなんてわかんないんだねえ。というのが私と次男の行き着いた結論でした。

 

「人が飼うのは可哀想なのか」

もう一つの疑問が残ります。

それは「閉じ込めて飼っているのはおかしい」のかということ。

「あのメダカは何で学校にいると思う?」

「勉強のため、観察したり育て方を学んだりするため」

 

メダカは、子供たちの学びのために学校で飼われている。

同じように、家族として可愛がるためだったり、観察や研究や保護、いろんな理由で人間に飼育されている生き物たちがいるよね、と話すと「売るために飼って増やしている人や毛皮をとるために捕まえたりする人もいるよね」と次男。

そのために絶滅してしまった生き物もいるし、ちゃんと育ててもらえずに病気になったりするケースもある、そんなひどいことにならないような法律や取り決めもいろんな国が取り組んでいるよねえと話します。

 

人間の勝手な都合で死なせたらいけないねえと漏らす私に「でも蚊は殺す」と次男。

うん、人間の生きる目的のために害虫や害獣を駆除せざるを得ないことはある。

 

結局、私たちにはその、自分たちの都合や目線でいろんな環境に影響を与えながら生きざるを得ないんだろう、とは思う。それを理解し罪の部分も意識しながら自分たちの利益や目的のために飼育を含む様々な形を取りながら生き物と共存している。でもそれを11歳の次男に説明するのはまだ難しいなぁと話しながら思いました。

 

じゃあ、放す?

どんな状態がメダカにとっての幸せなのかはわからない。

命あるものを人間の都合で飼うことの是非は簡単にはわからない。

じゃあ、どうしたらいいんだろう。

 

大前提として、その生態系にいなかったり人工飼育下で孵化させた生き物を勝手に放流したりすることはやってはいけない行為です。

生態系を崩してしまいます。

だから、どんな理由を思いついたところで学校で飼育されているメダカを川に放すことはできません。

 

じゃあ、どうしよう。

 

次男が出した答え

 

これが、次男の結論でした。

メダカにとって何が最も幸せかは自分ではわからない。自然に返すという選択肢は取れない。でも今の環境の中で一番幸せだろうなと思う状態にしてあげることはできる。それが自分がやることなんだ、と思ったようです。

 

生き物を飼う意義について

ここからは余談ですが、学校で生き物を飼うことの意義、というのを次男と話している中で、昔書いたこんなエントリを思い出しました。

この中では、飼っている虫を死なせてしまう子供たちのことを虫に詳しい先生に相談した時のことを書いています。

一部の個の犠牲を払ったとしても種全体への関心や知識を持ち続けてもらうことで絶滅を免れることができるかもしれない、そちらの方が種全体にとっては利益になるのではないか、というお話です。

 

何匹かの個体を学校で飼育することで、子供たちはメダカという種が存在することやその姿、どんな餌を食べるのか、どんな風に繁殖するのかを学ぶことができます。その学びの中には、本来は川など淡水の場所に生息していることやなぜ数が減少しているのかについての知識を得ることも含まれていると思います。

 

もし学校でメダカを飼っていなかったら、メダカについて知る機会がなかったら、メダカという生き物が存在していたことすら知らないまま大人になる人もいたかもしれません。

 

川にメダカという生き物がいることを誰も知らなかったら、生態系が崩れてしまってもメダカを守ることはできません。人間が認知しないまま人間の起こした環境の変化のために絶滅してしまった生き物もたくさんいるのかもしれない。

飼育には、知るという大きなメリットがある、それは大事なことだよね、と次男にも話しました。

 

「でも飼っているメダカが死んでしまうと悲しいんだ」

うん、そうだよね。個としてのメダカができるだけ幸せでいられるように自分のできることを考えている次男の優しさを誇らしく思った、そんな冬の日でした。

 

追記 2017.01.26

「飼うのが可哀想だというのを否定できてない」というブコメをいただいたので、それについて考えてみました。

 

思えば私は最初から「飼うのが可哀想だ」ということを否定しようという発想はありませんでした。それはあくまでも言った子の感情だからです。

話していくなかで次男が飼う行為そのものを否定されたようで困惑していることが見えてきたので、それについて彼なりの答えを見つけるための会話でした。

 

次男に「可哀想だ」というその子の主張を論破してほしいとは思いません。その子がそう思っているならそれはその子の今の答えです。それは大事にする人であってほしい。

その言葉に引っ掛かりを感じた次男は、自分のなかでその答えを探す必要があったのではないかと思うのです。

 

私のブログには「こうすればいい」という答えがない、というコメントを何度かいただいたことがありますが、この次男の件を考えていてそのコメントと繋がりを感じました。

 

次男は次男のなかで「自分はどうするか」 「自分のなかでどう折り合いをつけるか」という答えを見つける必要があった、私はそのお手伝いをしたに過ぎないのだろうと思います。

かわいいメダカの本―飼い方と素敵な水草レイアウト、ビオトープの作り方

かわいいメダカの本―飼い方と素敵な水草レイアウト、ビオトープの作り方

 

 

「めんどくさい」という困難に立ち向かう中で気づいた大切なこと

とにかくいろんなことが「めんどくさい」

食べ終わった食器を洗うのも、洗濯物を干すのも、とにかくめんどくさい。

締め切りのあるものはギリギリまで先延ばしにしてしまう。

やらなくちゃと思っていてもなかなか動けない。

 

そうやって先延ばしにしては溜め込んで、自分に絶望する。

 

私の毎日です。

 

めんどくさくない人になりたい

子供たちを送り出して、一人でやっと遅い朝食をとります。

出勤時間が近づいて食器をシンクまで運びますが、洗うのがめんどくさい。

たった1人分のお皿でもめんどくさい。枚数を減らしても、洗うという行為そのものがとにかくめんどくさい。

 

こういうのをサッと苦もなくできる人になりたい、なりたかった。

どうやったらなれるだろうかと何年も試行錯誤をしてような気がします。

 

試行錯誤の日々

どうやったらお皿を洗うのが面倒じゃなくなるだろう、と試行錯誤を繰り返します。

こんな感じで。

「りっすん」さんに書かせていただいたこの記事。

失敗してもいいからとりあえずやってみようの精神であーだのこーだの考えます。

 

お皿の枚数を減らそうか、食べる時間を変えようか…

 

やっと見つけた、ライフハック

その中で見つけた一つの方法が、ピタッと来たんです。

それが「今じゃなかったらいつか、の選択肢を自分で用意して選ぶ」こと。

 

例えばお皿を洗うことなら

①今すぐ ②仕事から帰宅後 ③夕食後…

と3つか4つくらいの選択肢をその場で自分で用意します。

その中から、自分がこれだと思うものを選ぼうというもの。

 

う〜ん、他の選択肢だと子供たちがいたり他の用事も重なっていたりして大変そうだから今やっとくか、となんとなく動きやすくなるんです。

 

 

 

見つけたライフハックと、すぐに気づいたカラクリ

すぐに気づいたんですが結局①今すぐを選ぶことがほとんどなんです。

でも毎回、いくつか選択肢を用意しては「あぁやっぱ今やっとかないとあと面倒だわ」ってなって体が動く。 

多分、「今やろうかなぁ、でもめんどくさいなぁ」って思う時が自分でもやれるかもって思ってるタイミングなんですよね。後になればなるほどめんどくさかったり、慌ただしい時は「やろうかなぁ」って思いつきもしなかったりする。

 

結局は思い悩むタイミングが自分にとってのベストだったりするのだけれど、それでもやっぱり毎回選択肢を用意してよし、って思わないと私の体はなかなか動いてくれません。

 

子育ての中で

自分にあった動機付けの仕方は見つかりました。

じゃあこれ、子育てにも応用できるかな、って考えたときにあることに気づいたんです。「繰り返しても慣れていかない」ってことに。

 

これまで、子供が何かできるようになるためにと思って育てている中で簡単な動機づけを与えて、それで子供が動いて、を根気強く繰り返していけば子供もその習慣がつくんじゃないか、そんな流れを意識しながら子供たちに声をかけたり動くよう促したりしてきたような気がします。

 

でも、自分の体を実験台にして気づいたんです。

 

何度このライフハックを駆使しても、システムが脳で理解できても、それでも私は「めんどくさいけどすぐやったほうがいいからやろう」ってなかなかできない。

そこまでわかってても、やっぱり毎回選択肢を用意するこの方法を使うほうが体を動かしやすい。

 

子供たちも必ずしもやり続けたら自然と習慣づくわけじゃないのかもしれない。

何度も何度も失敗してることを成功し続けるためには「できるための工夫をずっと続ける」ことも必要な種類の人間がいるのかもしれない。

 

おわりに

これまで私はどこかで、子育ての中で「子供たちが何かできるようになるまで見守る」ことに重きを置いてきたような気がします。でも子供のタイプによっては「何かできるための工夫を見出してその方法を続けることをフォローする」ことの方が大事なこともあるのかもしれない、と思うに至っています。

 

私に必要なのは「めんどくさがらずにすぐやろう」という意識を持ちつづけることではなく(それは無理だった)「結果的に終わらせることができるような工夫を続けよう」という意識を持つことでした(それならできた)。

 

表面上は同じような行動としてしか現れないことですが、中身は全然違う。

自分にはどの方法が向いてるのか、やりやすいのか、やっぱり試行錯誤の日々が続きます。

 

子供たちがどんな仕組みや工夫の元に行動しているのか、それが持続可能な方法なのか、そこを細かく注目してみたくなってきました。

「子供のいない人にはわからない」がタブーだと思う理由

昨日の記事のブックマークコメントでも言及をいただいたので、補足的な記事を書こうと思います。


昨日のエントリの中で

「子供のいない人にはわからない」という言葉について昨日のエントリの中では

公共の場で授乳せざるを得ない環境になってしまうのも、仕方ない。

でもその仕方なさを理由に、不快に思う方が悪い、「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。「子供がいない人にはわからない」は子持ちが絶対に口にしてはいけない伝家の宝刀みたいなもんです。それを言ったら、共存はできない。 

 こう触れていました。

双方それぞれに相手には見えないだろう事情や背景がある中で共存していくためには自分の都合で相手を判断せずに思いを馳せたり歩み寄ったりする姿勢が必要だというのが昨日のエントリの主な内容でした。

 

ツイートでの補足

昨日の公開後、この言葉を掲載したことについて思うところもあったので補足的なツイートをしていました。

 

このツイートを起点とする連続ツイートをリライトしてまとめようと思います。

 

当たり前のことをわざわざ口に出すということ

子供のいない人、産んだことのない人に、それを経験した人の感じたことや苦労がわからないこと、それは当たり前なんです。

 

骨折をしたことのない人にはその痛みをリアルに感じたことがないのと同じように、やったこともないことをわかるわけはないの。

 

でもそれは「子供がいて初めてわかることもある」ことを否定するわけでもないんですね。そっちもそっちで、至極当たり前のことなんです。

 

どっちも当たり前すぎるほど当たり前のこと。

それを「あえて口に出す」「わざわざこの局面で言う」ことの意味とその効力について、子供を持っている私たちは無自覚ではいかんと思うのです。

 

「子供がいたら」わかるのか

もう一つ掘り下げます。

 

先ほどの例で骨折を挙げましたが、一口に骨折と言っても足の骨をボッキリ折った人と剥離骨折した人では症状の感じ方は違うでしょう。

利き手の指を折った人と利き手でない方だった人とは抱える困難も違う。

 

ひとえに「子供のいる人」と言っても1人と4人では経験する世界は全然違いますよね。もっと言うと人数が同じだからと言って同じ経験が共有できるわけでもない。

 

私がうちの4人の子供たちを産んで育てて感じた苦労やしんどさや、逆に楽しさや嬉しかったことは「私以外の誰にもわからない」が正解なんです。

 

わからないし、わかれない

自分が経験していることを自分以外の人が共有しているわけではないように、自分以外の人の経験していることも私にはわかり得ません。

 

私たちは結局、誰のことも「わかることはできない」んです。

 

その、わかることができない者同士が同じ社会の中で生きているんです。無人島にでもいかない限り、誰かと適度な距離を保ちながら共存していくしかないと思うのです。

 

共存していくために

昨日のエントリを例に挙げれば、その人の出す答えとしてどうしてもそこで授乳した方が良い状況になることはあり得ると思うんですね。

それは、その状況になった人にしかわからないことです。

代替案は色々と後出しはできるかもしれませんが、それはその場のその人ではないから言えることなのかもしれません。

 

そして同時に、目の前で授乳行為を行われることがどうしても不快に感じる人もまた存在するのも事実です。それだって、その感情が湧いたことのある人にしかわからないことです。

理由は様々だろうとは思いますが、その自然に湧いてしまう感情を誰かに否定されたり感じることに制限を受けたりするいわれはありません。

 

その一見相対する両者も、共存できると思っています。

 

自分にはわからないけど何かしらの事情があるのだろう、と思うこと、距離を置くことも一つの方法です。

辛いのだと言う人がいたら「その人にとってはそうなんだろう」と感情は否定せず受け入れる。

 

 

「子供のいない人にはわからない」をタブー視する理由

自分の経験だけを元に「そんなはずはない」「そう感じる方がおかしい」「そうする方がおかしい」と切り捨ててしまったり、経験をしていないからわからないんだと言い放ってしまうこと、そうやって相手を否定する姿勢を見せるのは威嚇と同じだと私は思っています。

不快や不安の感情を自分の範疇で留めずに「だからお前が変われ」と求めてしまったら、それは相手を一つの人格として尊重していないということの証明。

 

自分が微動だにせずに相手に動け変われと要求している状態、そのポーズを見せられたらその相手に歩み寄れるでしょうか。自分を尊重しないその人の背景に思いを馳せたいと思えるでしょうか。

 

それぞれが尊重しあってコミュニケーションがはかれない。

これが「子供のいない人にはわからない」と言う言葉を子持ちの方が発することを危険視する理由です。

この破滅の力を持つ言葉を、無自覚に発してしまうのは怖いと思うのです。

 

おわりに

昨日のエントリで紹介したような自らベビーカーを押して経験してみようとしてくれる方もいますし、子供がいない人でも私たちが日々子育てをしていく上でたくさんの支援をしてくれているはずです。

 

そして、社会の中には子連れの人の行動に不快感を抱きながらも適度に距離を保ってくれている人たちもたくさんいる。

 

これは子連れとか子持ちとかに関わらない、広く言えることなんですね。

社会の中にはたくさんの「自分では理解できない言動をする人」が存在します。その人たちともそれなりに距離を取り、時に協力したり思いやりあったり手を取り合ったりしながら生活していると思うんです。

 

子持ちの苦労を子供のいない人にわかってもらう必要はないんです。そんな無理なことを求めるより、わからなくても構わないから同じ社会の中で生きていくために、お互いが心地よい距離を保つためのコミュニケーションが必要だと思うのです。

公共の場での授乳に関する投稿から考える、授乳室の現状とそれぞれの事情

TLが騒がしいと思ったら朝日新聞の「声」欄に投稿されていた23歳大学院生の文章が炎上している様子でした。

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これが炎上する理由は簡単なんですよね。

「境界線の逸脱」以上です。

 

不快感の表明、そう感じる人を知ってほしい、で止まらずに、自分の不快感を理由に自分と他人との間にある境界線を超えて、他人の行動を強制しようとしているから反発を食らう。

 

 

でもこれでじゃあ子持ちの気持ちがお前にわかるのかとか対立してもしょうがないので、ちょっと掘り下げてみようと思います。

 

授乳室とは

あの投稿読んでまず思ったのは、この方は多分授乳室に入ったことはなさそうだなぁということ。

 

実際の授乳室はこんな感じです。

 

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母乳を与えるスペースはこんな風に椅子が置かれていて、カーテンで仕切られているところが多いです。

画像のようにドアに施錠ができるタイプのところも稀にありますが、私が実際に訪れた多くは個人が施錠して使用できる空間ではなく複数の人が同時に利用できるよう誰でも立入れる構造になっていたり、個人を仕切るのはカーテンのみ、というところも多いです。

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これもフリーで拾ってきた画像ですが、母乳を与えるスペースの手前にミルクを作るためのお湯やオムツ換え用の台、ミルクを与えるソファなど、男性にも立ち入りやすいくうかんが設けられているところが多いです。

余談ですがこの壁紙、絵本作家の谷口智則さんのイラストですね、いいなぁ…

 

TOTOエンジニアリング株式会社-納入実績 リモデル現場事例

こちらの現場事例の画像がわかりやすかったのでリンクを貼っておきます。

施設の規模にもよると思いますが、母乳を与えるための個室が2つ程度しかないところも多いですし、入り口はカーテン使用で施錠できない仕組みのところがほとんどです。(←ここ大事)

 

実際に利用した場合の想定

我が家のケースだと次男に授乳をしていた頃は長男は2歳くらい、簡単な指示はわかるけど会話が成り立つほどではなく、自力で歩けるしダッシュすればかなりの速度が出る時期でした。

一緒に来てくれる身内がいればそちらに任せて赤ちゃんとふたりで授乳室に入るのが理想だと思いますし、おそらくそういうケースを想定した作りになっていると思われます。

しかし実際には、私が一人で複数の子を連れて行くなど上の子を連れて入らざるを得ないケースもありました。その時に、どうなるか。

 

赤ちゃんと個室に入ります。

カーテンを閉め、ベビーカーの赤ちゃんを抱えます。

座り、服をめくり、母乳を与えます。

 

その間、当然ですが上の子の手は離れます。

今ならスマホで動画を見せとくくらいの工夫はできたかもしれないし、当時もおもちゃを持って入るとか言い聞かせて座らせるとか迷子紐使うとか、それなりの努力はしていたと思います。

が、仕切りはたった1枚のカーテンのみ、脱走されたら乳を出してる自分には簡単に追いかけられない。

 

そして授乳が短時間で済めばいいんだけど赤ちゃんが寝に入るときだったりすると20分近くかかるのもザラです。

そうなってくるとその長時間を狭いカーテンの向こうで過ごすことになる。

 

個室が空いていればスムーズに入れるけど先客がいればそうもいかない。

 

授乳室そのものが抱える問題

ここまで書いてみたら見えてくるかもしれませんが、授乳室そのものには施設としての不備はかなりあると当時から思っていました。

改善があまりなされないのは人生の中で利用する期間が短いこともあるのかもしれません。利用する頻度も出かけた時くらい、どうにも外で母乳を与えねばならない期間も育児期間の中で長くても2年程度とごくわずかなので、改善を求めて動くほどのモチベーションが生まれにくいのかもしれません。

 

でもそれはあくまでも授乳室を実際に利用している人やその中の一部の人にだけ見える話です。

 

「授乳室」があるということ

「声」欄に投稿していた方のようにお子さんがいない人にとっては、「授乳室」というスペースがあるということの意味は私たちのそれとは違っていると考えた方が自然かもしれません。

 

例えば「喫煙室」という部屋があります。

喫煙する人のためのスペースですが、その存在には公共の場所での喫煙が禁止されているという前提があります。禁止する代わりにここでどうぞ、という場所ですが、もしかしたらこの喫煙室と同じようなイメージで授乳室を捉えている方もいてもおかしくないのではないでしょうか。

「専用のスペースが用意されている」→「授乳はそこですべきこと」

という思考の流れになるのかもしれません。

 

授乳がそもそもどこでもしていいことなのか否か、については個人の感覚差が大きい。

 

高校生以上のお子さんをお持ちの方はまだ商業施設などに十分な授乳室がなく車内で授乳したなどの話はよく聞きますし、私も長男が生まれた12年前にはよく授乳する場所を求めて結局駐車場まで行くこともしばしばありました。

 

人前での授乳を避けてなかなか商業施設に行きづらいママ層を取り込むための施設側のサービスが授乳室の普及につながったのかなぁと思ったりしています。

 

「授乳はどこでもしていいという主張」と「それを不快に思う感情」

これ、掘り下げても掘り下げても答えが出ないことなんですよね。

施設側が「授乳は公共の場ではしてはいけません」と明言することも恐らくはできないし、不快に思う感情ゆえに他人の行動を個人が制限することもできないから。

 

対立しても良い結果は産まない。

ネット上でも「子供のいない人にはわからない」という声が上がっていたり、不快に思う方がおかしいんだろうとか、いろんな不穏な意見が飛び交ってる。そんなの飛び交う中で、でも実際はリアルの世界の中でみんな共存していくしかないわけで。

 

じゃあどうすればいいんだろうっていうと、折り合うしかないんです。

 

公共の場で授乳するのに驚いたり、それを不快に思うのはだれに制限されることもない自然なその人の感情だと私は思います。

嫌なものは嫌だ、それは仕方ない。

でもその感情を理由に「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。

 

公共の場で授乳せざるを得ない環境になってしまうのも、仕方ない。

でもその仕方なさを理由に、不快に思う方が悪い、「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。「子供がいない人にはわからない」は子持ちが絶対に口にしてはいけない伝家の宝刀みたいなもんです。それを言ったら、共存はできない。

 

「お前が変われ」は自分と相手の間にある境界線を超えた行為、いろんな人間関係のトラブルの根っこにこれが存在することは多いなぁと思います。

 

どちらも仕方がないことだから、それでも共存せざるを得ないならお互いが少しずつ譲るしかない。

 

どうしても不快に感じるなら(授乳するような年齢の母子連れがこないような)違う職場を選ぶ自由も恐らくは投稿者さんにはあります。

授乳室の中を知ったり、母子連れの現状を察したりすることで少し気持ちを寄せることができるかもしれません。

投稿欄やネットなど発言の場で「不快に思う人もいることは知っていてほしい」と声をあげることの意義もあると思います。

 

どうしても授乳せざるを得ないなら、店員さんに一言声をかけたりするような、気を使う態度を見せるだけでも相手の心象は変わってくるかもしれません。

相手がそれを不快に思う人かもしれない、という想定を持って動くことでコミュニケーションはもっとうまくいくかもしれない。

 

おわりに

ちょうど良いタイミングでこんな記事が出ているのを見かけました。

【初詣ベビーカー論争】ベビーカーについて良く知らないから、押しながら都内を歩いてみた | SPOT

 

この記事では10キロのお米袋を赤ちゃんに見立ててベビーカー体験をしています。

本当に子育てをしたことのある人ならお米では本当の苦労はわからないと思うと思います。本物はこんなもんじゃない、動くし泣くしオムツ替えのタイミングもこちらの都合どおりにはいかない。

でも、そのリアルとの距離はあまり問題ではないと思うのです。

 

経験してみよう、どんなものか覗いてみよう、自分からこちら側に近寄ってみようという意識を持ってくれていること、その姿勢がとてもいいなと思いました。

 

不快に感じる人にもその人のなりの背景がきっとあると思うし、それをそうでない人が理解するのは簡単なことではありません。でも、何かあるのかもしれないとこちらから少し歩み寄ることはできる。

 

自分の頭の中の結論で「相手が悪い、おかしい」で止まらずに、向こう側にはそれなりの背景や都合があるのかもしれないと近寄ること、それをお互いが意識することで適度な距離を保ちながらいろんな人が共存していけるのかもしれません。

「この世界の片隅に」を子供たちと観てきました。(ネタバレありません)

前回、自分一人で観てきた映画「この世界の片隅に」を、満を辞して子供たちと観てきた記録です。

 

前回の感想文はこちら。

 

誰を連れて行こう

まず、悩んだのはここです。

映画を観た時に、どこまで子供たちが理解できるのか、どう受け止めるのか、がとても気になりました。

これまで子供たちが触れてきた子供向けの娯楽映画とは全く違っている作品、単純に「面白かった」で終わる内容ではないだけに、とても悩ましい問題でした。

 

小6と小5の息子たちは第二次世界大戦や原爆についての知識も多少ある。

小3の娘は学校で触れた程度、まだ園児の末っ子はちょっと難しそう。

 

観せようかやめようか、観せるなら誰に観せようか。

 

一人で悩んでも答えが出なかったので、家族会議。

その結果、上3人を連れていくことに決めました。

  • アニメだけれど子供向けの面白い作品ではないということ
  • 戦争についてのものだということ
  • 私がどうしても映画にしてほしくて協力した作品を君たちにも観て欲しいから連れていきたいということ

を事前に告げて。

 

それぞれの視点とそれぞれの感想

3人とも、終始じっと画面に食い入っていました。

長く映画館にいるのが初めてだった娘も「2時間あっという間だった」との感想。

 

長男は爆撃の様子や爆弾の種類に興味を持ったようでした。

次男は広島市や呉の地形に興味を持っていたようなので、後日ネットで解説されていた古い地図や埋め立ての様子について一緒に見ながら映画の中を一緒に思い返しました。

娘はすずちゃんや晴美さんの洋服や生活ぶりなど身の回りのことをよく見ていたようです。

 

子供に観せるかを躊躇した理由

「あー面白かったね!」って終わる映画では決してなかったのです。

それが、子供たちに今観せるべきかどうかを躊躇した一番の理由でした。

 

これまでうちの子供たちにとっての映画は、子供向けの楽しい内容のものがほとんど。

なので彼らのイメージの中で「映画=わかりやすく面白いもの」というのが形作られているのではないかな、と思っていたこと。

 

そして、戦争というものへの知識の乏しさが躊躇のもう一つの理由。

 

私が「この世界の片隅に」の漫画を初めて読んだ時の衝撃の最たるものは「これまでに知っていた戦争ものとはぜんぜん違う」ということ。

戦争の中でも当たり前に笑ったり泣いたりしていた人たちがいたのだという、当たり前すぎて見えていなかったことを突きつけられた、そんな衝撃でした。

 

それについてはこちらで。

 

私がこれまで知っている知識、人から聞いたこと、見て(観て)きたこと、読んできたこと、それがあっての、その衝撃だったし、理解できた細部もある。

じゃあそれがない子供たちはどう受け止めるんだろう、どう理解するんだろうという不安がありました。

 

話し合った結果で、最初の理由については「娯楽映画とはちょっと違う」という説明でカバー、次の理由についてはまだうまく消化できないまま「でも観にいきたい」という3人の意志を汲んでの決定でした。

 

観てから、これから

同じ映画を観てそれぞれの感想を抱いたように、これから先も子供たちそれぞれが色々な知識や経験からまたあのすずさんのいた世界を振り返ることがあるのだろうなと思います。

 

我が家には他にも戦争についての漫画や書籍はあるけれど今は子供たちのいるスペースには置いていないので、共有の本棚にそれを置いてみようかなと計画中です。

 

子供たちと地図を見ながら一緒に広島の地形を確認して楽しい時間を過ごしたように、これからも子供たちがそれぞれに感じたり考えたりすることに少しお付き合いできたらいいなぁと思っています。

 

おまけ

子供たちに触発されて実家の母もお友達を誘って観に行くそうです。

じわりじわりと周囲にも広がっていて、一人ニヤニヤしています。

2016年を振り返りました。

こんにちは、イシゲスズコです。

慌ただしい毎日の中で今年はまとめ記事的なものが書けるかなぁと怪しかったんですが、ギリギリでなんとか少し時間がとれたのでPCに向かっています(年賀状が足りなかったので追加で作成するという大義名分を得たのが本当の理由です)

 

昨年は28日に書いてますね、余裕かましてますね。

 

もっとも読まれた記事3選

まずは、アクセスが多かった記事を振り返ります。

アクセス数3位

去年の冬に書いた記事ですね。

 

アクセス数2位

2014年の1月に書かれたこの記事、ちなみに今年も検索語の上位には安定して「夫 ストレス」「夫 育児しない ストレス」などの言葉が並んでおりました。戦友のみなさま、お元気ですか。

 

アクセス数1位

初出は2013年、3年も前の記事が今年も1位を譲ることなく年を越す事になりました。

 

3つの記事はどれも今年書いたものではありません。

不甲斐ないなぁと思うと同時に、過去の記事にも未だ需要があるのだと嬉しくもあります。

ちなみに、2016年に書かれた記事の中でもっともよく読まれたのはこちらでした。

ちょっと意外でしたが、タイムリーな話題だったという事なのかな。

後日談としてはその後も組体操に関してたいした話題が出ることもなくで、別にどっちでもいいようなことだったのかなぁと思ったりしています。

 

印象に残っている記事、考えたこと

アクセスはそう多くなかったけど自分の中で印象に残っている記事がいくつかあります。

 

新しい視点、新しい道具(ツール) 

まずは今年の初めに書いたこの記事、夫や子供達との暮らしを楽に楽しくしていこうというモットーの元にあれこれと試行錯誤するようになってきた、そのきっかけになっているような視点との出会いでした。

 

テプラは結局買えずに年を越す事になりましたが、今日も3台のタイマーが元気に稼働しています。

 

新しい視点、というと直近のものだとこちら。

この記事に書いた会議の後、日常の中でちょっと気付いたことを「この管制塔役をお願いしていい?」「いいよ」のやりとりで夫に任せられるようになり、気持ちがちょっと楽になっています。

夫が担当の部分をやっていない時も「あの人の役目なのにやってない!」とならずに電話やLINEで「どうする?やろうか?」「じゃあお願い」(帰宅後に)「ありがとう」というやりとりができたり。なんだかいい感じです。

 

「何もしない」という支援

昨年の「9月1日に図書館にいる子どもたち」のことを書いた記事とリンクする内容ですが、支援というと「何かしたい」「しなくては」となる人たちがいます。

それについて考えを掘り下げた記事です。

 

いくつもの私と、本当のわたし 

 今年、アクセスは少なかったけど自分の中では一番好きな記事でした。

私は誰だろうなんだろう、ふわふわしながら今日もあたふたしている自分がいます。

 

小さな記事だったのだけれど、見てくれている人がいたのだなぁと嬉しくなったのが先日のお知らせ。

 

はてなブログ大賞の末席に並ばせていただけました。

波はありながらも、書いてきてよかったなぁと、そう思えた瞬間でした。

 

外部に書かせていただいた記事たち

今年は、外部にたくさん記事を書かせていただいた1年でもありました。

それどこ


「それどこ」では昨年にひきつづき2度目の寄稿を。

大好きなマック・バーネットさんの絵本について書かせていただきました。

編集さんとのやり取りや画像の工夫を一緒に考えたり、とても楽しい時間でした。

 

赤すぐ 妊娠・出産・育児 みんなの体験記

赤すぐさんでの連載も始まりました。

 

いつものブログの考えを掘り下げていく文章とはまた違った、体験記としての自分の記事の作り直し方に色々と学ばせてもらっています。

イラストを毎回考えるのも楽しみの一つです。

 

LITALICO 発達ナビ

リタリコさんへの寄稿も今年から。

発達ナビの編集長さんの提案は毎回、頭を抱えるような難題ばかり。時に悩みすぎてお腹を壊しながらも、難産の記事はいつも自分を成長させてくれてきたような気がします。

後半は色々と騒がしかったこの界隈ですが、私は私のできることを粛々と、と思っています。

 

Conobie(コノビー)

こちらにも書かせていただいてました。

私自身も今も、第3の道を考え模索しながら、毎日を送っています。

 

おわりに

このブログを書き始めたのは2013年9月。

3年の間に登録していただいた読者数は1650人、いまいちピンときていませんでしたが検索して見たらはてなブログ全体で36位なんだそうです。たくさんの方に読んで頂けてありがたいなぁと思っています。

 

今年一番大きかったのはやはり外部への記事が増えたことだったと思います。

思いつきで好き勝手に書くブログとは違って、それぞれのメディアごとに読者層を意識し、編集さんと何日もかけて記事を練り上げていくという経験でまたいろんなことを知り、面白さも広がってきたような気がします。

 

来年がどんな1年になるかわかりませんが、私自身が園児の母を卒業し、中学生の母という新しい役割が見えています。他にもたくさんの新しい出会いや新しい自分の世界が広がるだろう2017年に、またどんなものが書けるのか、ワクワクしながら今年の筆を置こうと思います。

 

1年間、読んでいただきありがとうございました。良いお年をお迎えくださいませ。

 

おまけ

今年最後に買ったのはこの絵本になりました。

なつみはなんにでもなれる

なつみはなんにでもなれる

 

レビューも書きたかったのだけど、それはまた来年。

映画「この世界の片隅に」を観てきました。(ネタバレありません)

いつものPCからでなく、スマホはてなブログアプリ経由で書いてみているので読みづらいところがあるかもしれません。ご了承くださいませ。

 

11月に公開されて以来念願だった「この世界の片隅に」を、やっと観てきました。

たまたまぽこっと時間が空いたので、先伸ばしできるタスクを全部放り投げて映画館へ。

 

道中、まるで遠距離恋愛中の彼に会いに行くような高鳴りを感じながら、どこかで「いやそんな観る前からハードルあげすぎても」と思う自分がいました。

 

映画館に着いて、チケットとパンフレットを買いました。それを抱えてトイレに入ったところで、心拍数が上がるのを感じましたがやはり「観る前からそんなに盛り上がっても」と耳元で小さな私がささやいているようでした。

 

まだ前の作品の上映中だったので入り口付近のソファに座り、パンフレットを後ろからめくりました。

たくさん並んだクラウドファンディング参加者の名前の中から自分を見つけるのはそう難しくはありませんでした。

 

ここにあった、と、指でなぞって涙が込み上げてきましたが「こんなところで一人盛り上がっちゃって」とそんな自分をくすりと笑うもう一人の私が隣に座っているようでした。

 

入場し、着席し、館内が暗くなり。

スクリーンには、小さなすずさんが立っていました。

「やっと会えた」

ホッと、しました。

 

それから終わるまでの時間、何度も何度も読んだ原作の世界が、そこに描かれていました。色と音と動きをごく自然に加えられて。

ただただその、加えられたもののすごさに圧倒された2時間でした。

 

町の人たちの声、車の音、鳥のさえずり……そして、飛行機のエンジン音や砲弾や爆撃の音。

 

あれは、BGMや背景画ではなかったと思うのです。

すずさんが聴いていた音がそこに再現されたいた、見ていた世界がそこに再現されていた、そう、感じました。

 

もっとも印象に残ったのは呉の軍港が爆撃を受けるシーンの音でした。

 

私は本当の爆撃の音は知りません。

これまで知っていたのは、映画やドキュメンタリーで流されてきたもの。

でもそのどれとも違う、とてもクリアで、とても怖い音でした。

 

これが、当時の人が聴いた音なんだと、なんの根拠もないけれどそう思った。それくらい、その他のシーンも含めてとてもリアルに感じられる作りでした。

 

軍港や艦が映るたびに、Twitterで片渕監督にお返事をいただいて驚き恐縮したやり取りのことを思いだしてこっそり恥ずかしくなったりもしました。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 

 

エンドロールが流れ、監督のお名前のあとにクラウドファンディング参加者の名前が。

 

スクリーンのなかに自分の名前を見つけたとき、涙が止まらなくなりました。

ここに来られて本当に良かったと、そう思いました。ハンカチでなくハンドタオルを持ってきていて本当に良かった、とも。

 

 

上映後のふわふわとした気持ちを落ち着けるのには少し時間がかかりました。

運転席に座ってぼうっとしていたら夫からのメッセージが届く着信音がして自分のリアルを思いだし、帰路に着きました。

帰りの道中で思ったのは、これは記録映画なのかもしれないということ。

戦争のリアルを、戦争のころにそこにあった暮らしを知らせるための教材のような位置付けになれる映画なのだと思いました。

 

目を閉じると、印象深かったいくつかのシーンが浮かびます。

すずさんの声も、耳に残っています。

 

彼女のリアルがあの映画のなかにあったように、私リアルが目の前にある。それぞれの人生を同時進行ですずさんといっしょに生きているような、そんな不思議な気持ちです。

 

映画のなかで丁寧に追われていたエピソードとばっさりカットされていたエピソードとを意識しながらもう一度原作を読み返したくなったので、お正月休みの楽しみにしようかと思っています。

 

出会えて良かった原作、知って参加できて良かったクラウドファンディングと、ずっと観たかった映画。

 

こうの先生と片渕監督と、そして関わったたくさんのスタッフさんや、協力してくれた当時を知るみなさん、こんな作品を世に送り出してくれて本当にありがとう。

 

 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

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