スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

子どもに「謝りなさい!」と言っていませんか?


週末、子どもたちを連れての小旅行の途中、大きな遊具のある広い公園に立ち寄りました。
遊具のそばには草すべりができる広い土手があって、遊具に飽きた息子たちは車に積んでいた段ボールを持ち出して土手を登って行きます。

 

かなり幅広の土手なのに、うちの子たちを含めなぜか同じところばかり滑る子どもたち。うちの子たちは段ボールを敷いてるからそうスピードは出てないんだけど、プラスティック製のそりを持参している子も結構いて、一列に並んではつぎつぎ滑る。
もっと広がって滑ればいいのになぁ、ぶつかりそうで危ないなぁ…と思っていたちょうどそのとき

「どすん」

土手のまんなかあたりで止まってしまった末っ子の背中に後ろからすべってきた子の大きなそりがぶつかりました。

 

そりに乗っていたのは末っ子と同じ4歳くらいの男の子。

末っ子に近寄る私の横を男の子の名前を呼びながら駆け寄って来た男性。お父さんなんだろうなと思うのだけど、びっくりして固まってる男の子に「謝りなさい!」と大きな声で何度も言いました。

末っ子は泣いてはいるものの怪我もなく、少し落ち着いたらまたお兄ちゃんのところへ駆け寄って行きました。

でも男の子はお父さんの剣幕にビックリして大きな声で泣き出してしまって。

 

私に「すいません」と頭を下げてくれたお父さんに
「怪我もしてなかったし、うちの子が途中で止まっちゃったからぶつかったんだし、気にしないで下さい、大丈夫ですよ」
と返したんですが、それでもお父さんは男の子に謝るように促していたので
「僕だってわざとぶつかりたかったわけじゃないよね。ぶつかっちゃってビックリしたよね。怪我してないから、大丈夫だからね。」
と男の子に声をかけて、私は子どもたちのところへ行き、前に人がいるときは滑り始めないこと、途中で止まってしまったら後ろから滑ってくる人がいるかもしれないからすぐに動くことを話し、少し離れたところから遊ぶ様子を見ていました。

 

男の子はさっき泣き出してしまった土手の途中で動けなくなっていました。

 

お父さんは少し離れたところからその様子を見ていました。多分、他の兄弟もいてそっちも見てないといけなかったんじゃないかな、あちこちを見ながら、時々その男の子のことを気にしつつ、固まっているその子に対して謝れなかったことを怒っているんだろうな、と思いました。

 

「謝りなさい!」

この言葉を、私も今まで何度子どもたちに言ってきたか分かりません。
頑として謝れない息子たちにこちらの怒りもヒートアップしてしまったこともありました。

でもよそのお父さんがわざとやったわけではない過失を背負った男の子に、何よりも先ず「謝りなさい!」と大きな声で言っているのを見ていて、客観的に思いました。
「この子、何をしちゃったのかわかってるのにな」って。

 

いけないことをしちゃったこと、男の子はたぶん分かってました。
でも謝りなさいというお父さんの前で、男の子の心の中はきっと、自分を守る為に一生懸命に「でも前の子が止まっちゃったんだもん」「大きいお兄ちゃんたちもみんな次々滑ってたもん」「ぼくだけ悪い訳じゃないもん」って、大人からしたら言い訳にしか見えない言葉をいくつもいくつも並べていたんじゃないかな。そしてその言葉を口に出したら「言い訳するな!」って言われることも分かってたから、だから何も言えずに、ただそこに立ってることしかできなかったのかなと。

 

立ち尽くしたまま動けない男の子と、一度湧いた怒りを抑えきれないお父さんと、その二人はまるで、謝れないと黙りこくっていた息子とその息子を許せなかった私のようで、ひとごととはとても思えなくて、どうしようかとうずうずしてしまいました。

 

余計なお世話なのかなと思いながらも、うちの子たちと話しがてらその子のそばに近寄って
「せっかく楽しく滑ってたのに、(息子)のせいでお父さんにしかられちゃったね、ごめんね」
「ビックリしちゃったら謝るの、難しいよね。でもおばちゃん、僕のごめんの気持ちわかるから、大丈夫だからね」
って小さく声をかけたら、その子は大粒の涙を流しながら大きな声で泣き出してしまいました。
お父さんがあわてて駆け寄って来て「すいません」とまた言われたので「いえいえ、こちらこそごめんなさい」と謝ると、何か話しながらその子を連れて行きました。

夫に泣かせたなと言われながら、あの子とお父さんがそのあとどんな話が出来たのかなぁとか、よけいなことをしてしまったんじゃないかなぁとか、色々考えてしまいました。

 

公園で遊ぶ子どもたちの歓声の中、男の子の気持ちを考えながら読みかけのある本のことがよぎりました。

 

旅行に出る前に半分くらい読んでいたこの本。

刑務所で服役中の犯罪者に対するカウンセリングや授業を行っている大学教授の方の著書です。

 

殺人や強盗など凶悪な犯罪者、麻薬に手を出した女子大生、校則を破って謹慎になった高校生、色々なレベルのいろいろな「悪いことをした人」が出てくるのですが、一貫して著者は説きます。

 

「反省させてはいけない」

 

安易な反省を求めることは、形だけの反省が上手くなるだけで実際に自分がしたことを振り返ることも受け止めることもできないまま感情を抑圧してしまい、結果その抑圧がさらなる犯罪行為を産む。(著者は自殺もまた広義の犯罪行為であると記しています)
模範的な反省文を書くことで反省しているように周囲に受け取られていてもその心の底では自己弁護を繰り返し、感情を抑圧し、それを自分の中に蓄積していく。そしてある日、なにかのきっかけでその抑圧された負の感情が暴発し、犯罪に繋がってしまう。自分が検挙されるような犯罪を犯さなくても、その抑圧された精神状態では機能不全家庭を形成し実子にその負の感情を引き継ぎ、世代間の連鎖が繰り返されてしまう、と書かれています。

多少無理やりな感もあるのですが、書かれていることには納得がいくことも多くあります。

叱られ、反省を促され、何度も謝らされて来た子どもたちは「模範的な謝り方が出来る」と著者は言います。相手が納得するような謝り方が出来る。でもその心の奥底では、相手のせいで自分がこうなってしまった、わざとではなかった、本当はそうしたいわけじゃなかった、相手にも非があるのに、と繰り返している。
この感情は自分自身、身に覚えがあるのです。
交通違反で切符を切られたことがある方は、パトカーの後部座席に誘導されるときの自分の感情を思い返してみたらどうかなと思います。素直に自分の非を認め、反省しながら署名するのは多分とても難しい。

 

著者は繰り返します。
何か起こしてしまったときに、すぐ反省なんてできない。
時間をかけて自分の感情を吐き出したその先に自分の心の痛みを理解することがあり、更にその先に相手の痛みを知るに至る道がある。

 

その途中で「謝りなさい」と形だけの反省を促され、そのポーズを強いられ、納得のいかないまま謝ることを繰り返していたら「お子さんは犯罪者になりますよ」と、要約するとそういうことが書かれているのです。とても衝撃的なタイトルですが、その内容は至極納得の行く、そして色々考えさせられるものでした。

 

何かしでかしてしまったとき、子どもたちがすぐに謝れなくてもそれは自然なことなのかもしれません。むしろ、するっと謝罪の言葉と反省の態度が出てくる子どもがいたら、その子は「模範的な反省」に慣れてしまっている、抑圧を身につけてしまっている子かも知れない。

 

「謝りなさい!」と言う前に、親として大人としてまず出来ることがあるということ。
それは、これからさき思春期に向かう子どもたちを持つ親として私に課せられた大きな課題。

 

小さな体でいろんなことを考えながら土手に立ち尽くす男の子の様子を見ながら、そんなことを考えた週末でした。

 

 

※追記 2014.09.18

あまり追記という形で書き足すことは好まないし続編も書いているのでここに書くのもどうかなと思ったんですが、一応、このページだけのアクセスが多いので書き残しておけたらと思いました。

このエントリを書いてから「謝らなくても良い」「故意でなければ謝る必要は無い」「反省する必要がない」と書いてあるように読める、というご指摘をいくつか頂きました。

スリードに繋がる記述だったのだと反省しています。

 

翌日書いた次のエントリにも詳しく書きましたが、謝る行為そのものを否定するつもりも、対人関係のスキルとしてとりあえず謝罪するという行為を否定するつもりもありません。私が否定したかったのは強い口調で謝ることを強制する行為で、それが後述した本の内容である「大人がコントロールして反省させること」の弊害に繋がっていくのではないかと考えています。自分自身が過去に子どもに対して「とにかく謝らせないと」と思っていたので、お父さんの様子を見てはっとそのことを思い出しました。

 

うちの子たちの様子を見ていても思うのですが、してしまったことを子どもが理解して反省や謝罪したい気持ちに至るまでには本当に時間がかかります。その時間を公の場でとることが難しいこと、初めて会うその場限りの方とのトラブルでその時間をとったり長引かせたりすることは有効ではないこともまた事実で、どうすべきかは簡単には答えがでない、本当にケースバイケースなのだろうと思います。

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