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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

お母さん、母親、保護者、私。


少し寒い室内から気温の高い屋外に出たときの、ふわっと熱気を感じるあの瞬間が好きだ。冷えた身体の末端まで一気に血が通うような、自分の身体中の血管がそこにあることを主張しているような、私の輪郭がはっきりするような感じ。私がそこにいることを、私の身体が生を持続させているというのを感じる瞬間。

 

 

「私は誰だろう」

 

今朝いろいろと考えながら、そこで立ち止まった自分が居た。

 

小学生の保護者として、園児の保護者として、4人それぞれのお母さんとして、その役割から担ったタスクでスケジュール帳は4月からずっとぎゅうぎゅうで、そこにイレギュラーに発生するトラブル対応や外からの頼まれごとが入り、子供たちそれぞれの困りごとを防ぐための配慮を考え、準備し、それを周りに頼むために奔走し、ほかのお母さんたちと些細なことから重要なことまでスマホ片手に情報をやりとりする時間が入ってくる。

 

引き受けているタスクと飛んでくる連絡への対応と、今後起こりうる色々なことをスムーズに進めるための対策を考えることとそれを実行すること、本業の仕事の隙間にそれと家のこと子どものこと、それをこなしていくだけで1日が終わっていく。

洗濯物を畳みながら、お風呂に入りながら、食器を洗いながら、子供たちの言葉を聞くのはそんな「ながら」な時間。一緒に笑うこともあるけれど、そこから新たな対策をとらねばならなくなる情報が入ってくることも、悔しさを一緒に飲み込むしかないこともある。

 

ふりまされながら、こんなに忙しい毎日の中で「親」としての色々に翻弄されている。

 

発達障害児の親の苦難について触れたどなたかのツイートを目にした今朝。

 

私がここしばらく毎日流されながらあちこちへと対応し続けていること、それは「親」としては当たり前のことなんだろうか、とふと立ち止まる。

 

どこまでをやるのが親なんだろう、どこまでを親が求められているんだろう、どれが「親の責任」で、私はどこまでやれば「ここまででいい」って自分で思えるんだろう、どこまでいけば「もういいよ」誰かに言ってもらえるんだろう。

 

私は背負ってるいろんなことを、親としてやるべきことだろうと思いながらやってるんだろうと思う。でも私が抱えているそれを一生抱えることのないままその人なりの親としての人生を全う出来る人もたぶんいるんだろうと思う。そして晩ご飯に何品も並べたり栄養価を考えて一日の献立を用意したりするような、毎日丁寧に家中を掃除するような、洗濯物を毎日畳んで整然とした室内を保つような、そんな私が忙しさの中でまともにできていない「親としての仕事」をこなしている方もきっとたくさんいるんだろうと思う。

 

私はいろんなことを親として背負っているのだろうと思っているし、できていないことは「親としてダメだ」と思ってしまうのだけれど、でもそれは本当に親の仕事なんだろうか。全員がやってるわけじゃないのに?やってなくてもそれなりになんとかなることもあるのに?私が現段階でできてないのに?

 

私が今やってるのは「親としてのタスク」なんだろうか、いやそれもしかしたら私がやりたくてやってることや、私がやらざるをえずにやっていることなんじゃないだろうか。

 

 

たくさんの「親」に共通したタスクがどこからどこまでなのか、私にはわからない。その漠然とした、誰かが決めているわけでもどこかに明記されているわけでもないふわっとしたことが、親に求められているように錯覚されているのかもしれない、「親の責任だ」ということばでまとめられているように感じて、それに私は引きずられているのかもしれない。

 

私が実際にやっているのは親共通のタスクではなくて、それぞれの子どもの保護者として、それぞれの子どものお母ちゃんとして、夫の妻として、この小学校の一保護者として、この園の一保護者として、それぞれの立場でたまたま担っていることに過ぎないのかもしれない。

 

 

昨日担任と話し合ったのは「親だから」ではなくて「次男の」保護者だから。

長男の靴を昼休みを割いて買いに行くのは「親だから」ではなくて「長男に頼まれた」から。

娘の発表会の衣装のお直しをしてるのは「親だから」ではなくて「合わない服で困る娘は見たくない」から。

園の行事でお世話をするのは「親だから」ではなくて「三男がそうすると喜ぶのを見たい」から。

 

ひとつひとつのタスクを、私は親の責任だから親だから親だからと自分に課していたような気がする。でもその一つ一つは、1人の人間としての私が引き受けたり、やりたいと思っていたことなのかもしれない。

 

やりたかったのは、やらずにはおれなかったのは、私だ。

 

 

私は誰だろう。

その答えはやっぱりわからない。

慌ただしい毎日の中で、私は時折自分がどんな食べ物が好きだったのかすら忘れるほどに、自分が今何歳なのかを忘れてしまうほどに、背負ったタスクをどうこなしていくかを考えて走ってる。

 

「私」が何なのか、社会の中でその一部として動き続けている自分にとってはあまり大事なことでもないのかもしれない。社会からしたら「私」そのものが何かなんて多分そう大切じゃない。私が何をするのか、何をしているのか、大事なのは多分そっち。それは他人に限らず我が子とってもそうなんだろうと思う。「私」が「親」としてどうなのか、はきっとたいした問題じゃない。何をしているか、何をしたかを私は見られている。

 

 

いろんな立場にあたふたしながら自分の輪郭がぼやけていく感じがする。それを立ち戻って「私とはなにか」を考える時間すら、今の私にはもったいなくも感じる。

 

でも冷えた手足にふっと血が通う瞬間や、トイレでひとり息をついたときや、懐かしい香りに気づいたときや、夜中薄暗い部屋のなかで1人でふと目が覚めたときに、あぁ私がここにいると思うことがある。

 

冷凍庫の奥にしまったアイスを口に運びながら、苺のアイスが好きだった自分を取り戻す。

夫とあれこれ話しながら、お母さんじゃない自分を思い出す。

運転中や仕事中にラジオから流れるちょっと懐かしい音楽を聴きながら、あぁこれ好きだったんだって思い返す。

 

そうやってときどき「私」を思い出しながら、今日もぼんやりした輪郭の私はあたふたと日々を過ごす。

 

仕事をし、役員として学校に足を運び、誰かに子供たちの何かを頼むため頭を下げ、お世話になったことを感謝し、うれしいことや悲しいことを私に伝えてくれる子どもたちの声を聴いては一喜一憂し、晩ご飯はなににしようか悩み、洗濯物をたたみ、週末はどうすごそうか計画を立てる。

 

当たり前の毎日を家族が過ごすために、当たり前の学校生活を子どもたちが送れるように、何者かわからない私が今日もあたふたと何かをしようとしてる。明日もたぶん、同じように過ごすんだろうと思う。どこかで終わりがくるのかはわからない、想像もつかない。でも終わりの日がくるまで、私は私なりにあたふたしながら生きていくんだろうと思う。

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