久々にスマホから書いています。
日曜日の昼下がりにポカンと時間が空いて、子供たちはそれぞれ遊びにいったりゲームしたり。
ぼんやりと考えていたのです。
Twitterで「死にたい」と言った先になぜ殺人があったのか。
なぜあの殺人をおかした人は人を集められたんだろうか。
それを防ぐため?にTwitterで「死にたい」と言えなくなったらどうなるんだろうか。
その考えるなかで見えてきた、あの殺人事件の背景と困っている人たちに水際で寄り添うピアサポートの関係について、書いてみようと思います。
私はいま、ペアレントメンターの養成講習を受けています。
ペアレントメンターとは、発達障害のある子を持つ親としての立場で、同じように発達障害児の親の話を聞いたり必要な情報を共有したりする形でサポートしていくボランティアです。
私が受けている講習の大半は傾聴と呼ばれるスキルの習得に費やされています。
話を聞く練習です。
相槌や必要最低限の言葉を挟みながらただただ相手の話を引き出していく、それだけのために何時間も講習を受け、ロールプレイ(実演)を繰り返します。
なぜただ話を聴くという行為にそんなに時間をかけるのかと思われるかもしれませんが、これがやってみると本当に難しい。
実際にやってみると痛感するのですが、自分が通ってきたような道について悩んでいる人が目の前にいるとつい、こうしたらいいよと言いたくなるのです。助言をしたくなる、道を示したくなる。
でも、それは傾聴の場では原則NGです。
求められてない自分語りは要らないのです。
ロールプレイのなかで逆の立場になってみると要らないというのがよくわかります。
話している最中にそれを遮られると、とたんにその人への信頼感がグッと下がってしまうのです。講習の中なのでお互い演技なのですが、バツッと切られて自分の話をされると「この人にはもう話せない」と思うような諦めや絶望に近い感覚を持つこともありました。
このような傾聴のスキルを子育てに応用しているのがこのブログでもよく紹介してきたこの本です。

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全
- 作者: アデル・フェイバ,エレイン・マズリッシュ
- 出版社/メーカー: きこ書房
- 発売日: 2015/08/19
- メディア: Kindle版
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この書籍と出会ってすぐに、我が家で実践してみたことをまとめています。
このような傾聴のスキルは対人援助職の方も会得されていると思いますし、困っている人の話を聞くのプロの仕事だろうと思われる方も多いと思います。
もちろん、プロのカウンセラーさんや相談支援専門員がそこを担ってサポートする体制は必要で、その拡充は私たち障害児の親としても求めて止まないところではあります。
ではペアレントメンターがなぜ養成されているのか、というと、プロにはない一番の強みがあるからです。それは、ピア(同じ経験を持つ)な立場であるということ。
独身の保育士に「子育てしたことないくせに!」と投げつける保護者がいるという話を聴くことがありますが、同じような葛藤を支援者に向ける方も少なからずおられるそうです。障害児の親になったことがないくせに、と。
ペアレントメンター講習の中で指導してくださっているプロの支援者の方も保護者からそうぶつけられたことは何度もあるそうです。
もちろん口に出すのはごく一部の方だとは思いますが、そんな心理的な垣根を感じる方も少なからずいらっしゃる。垣根のないところから寄り添える、それがピアサポーターとしてのペアレントメンターの強みだと講習の中で触れられていました。
しかし、ピアな立場だからこその難しさがあります。
同じような保護者の話を聴くと自分の経験に引き寄せてつい助言したくてうずうずしてしまうのです。
だからこそ、繰り返しの講習で傾聴のスキルを磨くことを求められているのだろうなと思っています。
話をする側からしたら、同じ経験をしてきている人が自分の話を遮らず助言もせずただただ聴いてくれるということがときにとても大きな救いとなり、相談機関に行ってみようと重い腰をあげる気持ちを持ったり、学校と交渉していくための心の支えとなっていくのかもしれません。
ペアレントメンターの制度についてはまだまだ未整備の部分も多く、実際に価値のあるものとして継続することができていくものなのかも不透明ですが、あえてここで触れたのはその活動を紹介したり啓蒙したりするためではなく、9人を殺害した犯人のやったこととリンクしていくための布石としてです。ペアレントメンター自体の是非や現状について語りたかったわけではありませんのであしからず。
さて、本題に戻ります。
ピアな立場の人が傾聴をしてくれる、ということがなぜ障害児の親支援の場で求められているのか。
そこには、プロだけで救いきれない声が確実にあるからなのかなと思っています。
不安やしんどさがあってもいきなり役所の窓口や相談機関に出向いたり電話をしたりするのが難しい、抵抗がある、どうなるのかわからなくて怖い、そんな段階にいる人たちがたくさんいます。
講習の中で挙げられていた事例の中にも、自治体の職員が訪ねて行っても怖がって出てきてくれない方にゆっくり時間をかけてお話を聴いていったら「どこかに勝手に繋げられてしまうんじゃないか」「育て方が悪いと叱られるんじゃないか」と怖かったと話してくれた、と言うケースもありました。
そんなケースをどう埋めていくかという模索のなかのひとつが、ピアな立場の人による寄り添いなんだろうなと思っています。
秘密を保持してくれて、勝手にどこかに通報したりせず、自分の話を遮って説教したりダメだししたりせず、ただただ頷いてゆっくりと話を聞いてくれる人がいたら、そしてその人が自分の辛い気持ちについて「わかるよ、自分も同じだよ」と優しく言ってくれたら。
そうやって少しずつ信頼関係を築いていくこと、話をしていくことで自分が一人ではないことを感じ、苦しんでいるのが自分だけではないことを意識していく。
これを、支援としてやろうとしてるのがピアサポートなのかなと。
そしてこれを、殺人に導く道具として使ったのが、あの犯人だったんじゃないか、と思うのです。
長く書いたのでご理解いただけるかもしれませんが、傾聴は簡単なことではありません。ときどきナチュラルにそれができる人もいらっしゃるのですが、素人がいざやろうと思ったらかなりの技術や経験を要します。
その自分の経験を照らせば、信頼を寄せてもらい誘い出すまでの会話のスキルが並みではなかっただろうことは想像に難くないのです。
テレビで散々言われているようなネットで「死にたい」と言える場があったから起こった事件ではなくて、それを巧みに利用することで犯罪をおこしたと考える方が自然なのではないかと思うのです。
再発を防ぐために制限すべきは「死にたいと言うこと」でしょうか。
「死にたい」と言う場がなくなれば、Twitterで「死にたい」という声を閉ざせば再発は防げるでしょうか。
私はそうは思えません。
特定の言葉を狩っても似たような言葉が使われるだけかもしれないし、そんな言葉を見つけてまた、同じようなことが繰り返されるかもしれません。
あの事件は、人の心に寄り添っていく技術を悪用した結果起こったこと。
安全に使えば暮らしを便利にしてくれるけれど悪用すれば人を死に至らしめる、刃物や自動車などがよく例に挙げられると思いますがそれと同じなのではないか、と思うのです。
同じようなツールとして、Twitterを見ることもできると思います。
犯罪とは全く逆の効果として、Twitterは悩める人たちにとってのある種のピアサポートとしての役割を果たしているのも事実です。
子育てがしんどいと言えば私もと声をかけてくれる人がいる、恵まれない生い立ちや障害や難病など、リアルではなかなか同じ悩みを抱える人には出会えないけれどネット上で声をあげるとすぐに同志が見つかる…
同じ立場で悩んでいる人がいることがわかって「自分だけじゃない」と救われたケースもたくさん見聞きしてきました。
私も、Twitterを通してたくさんの同じような境遇の親御さんと知り合い、いろいろとお話をしたりして日々の支えになっています。
特定の言葉を閉ざしてしまうことに端を発したさまざまな規制が、そうやって救いにも繋がっていたことへの弊害にならないことを願うばかりです。