「コンパスが明日いる」
「漢字ノートがもうない」
小学生がいる家庭の割と日常茶飯事な情景なのかもしれませんが、これに頭を抱えるお母さんお父さん方の声をTwitterで見かけることもよくあります。
先日も流れてきていて、それに呼応するように対応について悩むツイートも流れてきていました。
冒頭の発言を受けて「じゃあお母さんが用意してあげよう」ってやってあげていいのか、悩んだことのある方は多いと思います。私もその一人です。
それなりに無理をすれば慌てて買ってきてあげることはできるんですね、学校に届けてあげることもできることもある。
でも「それをやってあげていいの?」って悶々としてしまう。
今日は、そんな疑問について考えたことを書いてみようと思います。
行き着いたところから言いますが、やってあげています。
いきなりですが、我が家ではその状況が生まれたら結果としては私ができる限りの行動をとってあげることも多いです。
先日もノートがないという娘のために24時間スーパーに車を走らせましたし、昨日は図書室で借りた本を忘れたという末っ子のために出勤前に学校に寄りました。
どちらのケースも発端はそれぞれの「ノートがない」「本、忘れた」という発言です。
でも、それを受けて私が自ら走り回ったわけではない、そこが、私が行き着いた大きなポイントです。
「で、どうしようか」と言う問いかけからのステップ
「ない」「忘れた」で止まる子どもたちに尋ねます。
「で、どうしようか」
子どもたちはそれぞれ少し考えて
「今から買いに行ける?」
「仕事に行く前に持ってこれる?」
と私に問います。
それを受けて私はそれぞれに
「いいよ、できるよ」
と答えます。
その返答を受けて子どもたちが私に
「じゃあお願い」
と頼みます。
私は行動をとります。
子どもたちがそれを受けて
「ありがとう」
「助かった」
と口にします。
そこまでが、我が家のステップ全行程です。
「忘れた」から「お願い」までのステップが整えばやってあげてます。
逆に言えばそこまでの言語化ができなければ何をして欲しいかわかっていてもやりません。
同じことをやってるのに、何が違う?
結局やってるわけで、じゃあ何が違うの?と思われるかもしれません。
形式的なステップを踏んでるだけに見えるかもしれませんが、実は大きな違いがあります。
それは「判断したのは誰か」という部分です。
「忘れた」という言葉に反応して私が考えて私が判断して行動してるわけではないんですね。それだと子供にとっては「現状を口にするだけで誰かが勝手に動いてくれた」という経験になってしまう。
「忘れた」と気づいた後で、【どういう過程が必要】でそれを【誰に頼むか】を決めて、【具体的な言葉で依頼】して、【やってもらったことについて感謝】するところまでを自分の意志でやる、という違いです。
もちろん小さい子は全部の判断が難しいと思うので、その辺は程度に合わせてこちらがフォローを入れています。
「自立する」という言葉の意味
子育ての最終的な目標は子どもたちが【自立する】ことなのかなと思っています。
じゃあ自立するってなんだろうって考えた時
自立=【自分でなんでもできる】
って思いがちだなぁと思うんですが、そうじゃないんじゃない?と最近は思っていて。
自立=【自分で解決できる】
ということ、もっと言うと
自立=【自分で解決できる】
=【自分で解決法を考えて適切にいろんな人を頼りながら実行できる】
なのかな、と考えたりしています。
おわりに
小さい頃から忘れ物を日常的にしちゃう、その時点で多分、忘れ物なんか意識してればしないよね?っていう種類の人とは違う人種なんじゃないかと思うんですよ。
がむしゃらに努力したところで多分、同じ人種にはなれない。
人それぞれでできることは違ってて当たり前だし、自分の性質を自覚して人を頼れたらそれなりに生きていける。
苦手な部分を言葉たらずでも誰かが先回りしてやってくれちゃってたらいつまでも自分の苦手とは向き合えないままになっちゃって、自立には繋がらない。
困ったことや苦手なこと、失敗しちゃうことと、それをカバーしたりリカバリーしたりしながら生きていくことはワンセット。
失敗のたびに叱られて誰かになんとかしてもらって終わり、じゃなくて、対処法を自分で考えて選べるようになれば生きていくのはかなり楽になっていくんじゃないかな〜と思っています。
今日はサムネイル画像貼るの忘れなかった(私偉い)!
タイトルに合わせてコンパス。
次男のために買った「くるんパス」結局大して使わないまま置き去りになっててイオンに売ってるやっすいコンパスを愛用してる…ぬーーー。