松の内を過ぎましたので新年のご挨拶は控えますが、今年もこんな適当なペースで書きたいことを書いていきます、宜しくお願い致します。
さて、新年一発目に何を書くかなと考えていたのですが、昨日だかTwitterで回ってきたつぶあんこしあん論争について書いてみたいと思います。
(元ツイートはもうどこへいったかわからないので省きます)
「つぶあんが好きな人はこしあんも許容できるケースが多いようだけど逆はないのはなんだろう」的な内容だった元のツイートを受けて私が書いたのはこんなことでした。
つぶあんが好きな人はこしあんでも我慢できるけどこしあんが好きな人はつぶあんでは我慢できない、粒が嫌だから、粒が嫌だから、粒が苦手だから!
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2018年1月9日
これを書いた時、つぶあんにはつぶ以外の部分でこしあんの要素があるから許容できるケースも多そうだけど逆につぶあんが苦手な人はつぶそのものへの抵抗があるからダメなんじゃ、と思っていたんですね。
でもそれから一晩経てTLを流し見てたら「どうにもこしあんが嫌だ」という声があったんです。「こしあんは泥、耐えられない」と。
なるほどと思いました。
それを経てこんなことをつぶやきました。
つぶあんが好きな人の中には「こしあんでも平気だけどつぶあんの方が」な人から「こしあんは泥、無理絶対無理」な人までのグラデーションが存在し、こしあんが好きな人の中には「つぶあんでも平気だけどこしあんの方が」な人から「つぶが最悪、無理絶対無理」な人までのグラデーションが存在する
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2018年1月9日
一言に「つぶあんが苦手」と言ったところで、その苦手にどんな意味が込められているかまでは見えてきません。
ツイートに書いたように
「つぶあんでも食べられるけどどっちか選べるならこしあん派」
という人から
「どうにも苦手で絶対に食べられない、無理」
という人まで、程度は様々、グラデーションが存在しているんですよね。
んで、「こしあんが苦手」と言う声の中にも同じようなグラデーションが、多少の程度の差はあっても存在しているわけです。
じゃあ「〜〜が苦手」と言う言葉を聞いた時に、自分がどんなニュアンスで受け取っているだろう、って振り返ってみる。
「こしあんが苦手」と言われた時、
・食べられないこともないけど避けたい程度の好き嫌い
・我慢すればなんとか食べられる程度
・食べたら吐いてしまうほど苦手
・部屋の中に存在しているだけで具合が悪くなるほど辛い
いろんな「苦手」が存在しているけど、じゃあ自分がどの段階を想定して聞いてるだろうかと。
「普通『苦手』って言ったらこのくらいの段階でしょ〜〜」ってこれ読みながら自分のこの程度ってところを思い浮かべていると思うんだけれど、その「普通」が10人が10人同じとは限らない、と言うか多分、10人が10人、微妙な差がありつつ違うんじゃないかと思う。
そのズレが、「苦手って言ったのに出された」「我慢すれば食べられるんじゃないの?」なんかの現実問題として浮き彫りになってきちゃうのかなと。
これ、あんこの話として書いてきたんだけど、いろんなことに当てはまるんだろうな〜と思うのです。
「大きな音や雑踏の騒音が苦手なの」と言われた時、どんな困難がその人にあると想定して聞いてるだろう。
「食感によって苦手な食べ物があるの」と言われたら、「朝起きるのが苦手」「眩しいのが苦手」「長時間同じ姿勢でいるのが苦手」と言われたら…
つい、自分の感じ方を軸にして「どの程度か」を瞬間的に察して受け取ってしまいがちなのかなぁと思うのですね。それは多分、自動的にやっちゃいやすいことで、それはそれで仕方ない機能なのかなと。
でも、もう一歩意識したいな、と思うのです。
「苦手」と申告する言葉の中に、「どちらかといえば苦手」という程度から「どんなに頑張っても無理、苦しみを伴う」という程度までのグラデーションが込められているということ。
この「グラデーションがある」を意識して話を受け止めるか否かで、多分物事の見え方が大きく変わってくるんだろうなというある種の発見(というほどでもない些細なこと)で新年最初のエントリを締めたいと思います。