今日は、ちょっとだけ。
慌ただしく仕事の打合せや学校行事を渡り歩いているなかの短い空き時間に、ニンパイさんのこんなツイートを目にしました。
「だいたい子どもというのは、生まれつき卑劣なもの。私は、そうした子どもの正直な、無邪気な卑劣さというのもを愛している。それこそ、ぼくらが持っているものだからね」チャールズ・M・シュルツ
— ニンパイ (@shinobuk) 2016年7月6日
※補足
ニンパイさんがでどころのブログを教えてくれたのでリンク貼っときます。
ググってみましたがうまくヒットしないのでこのツイートが「ピーナッツ」の作者チャールズ・M・シュルツ氏自身の発した物なのか、出展は何なのか、は全く不明です。が今回の本題はそこではないのであえて掘り下げず引用だけしとこうと思います。
「卑劣」な子供たち
子供にむけて「卑劣」という言葉を使っているこれ、一瞬の引っかかりがある人も居るかもしれないしいないかもしれない。でも私はなんか、しっくり来るような気もしたんですね。4人の子供たちと、その子たちを取り巻くたくさんの子供たちと日常的に接している生活の中で、清廉潔白なお子さんなどまずお目にかからない。ほとんどの子供たちは腹黒く、自己中心的で、ワガママで、自分を最優先して欲しい様子が見て取れる。それは、少なくとも私が日常接する乳幼児から小学校6年生まで年齢に関わらずそうだなぁと。
卑劣;することが正々堂々としておらず、いやしくきたならしいこと。
とGoogle先生は仰っておられる。
卑劣というと悪意を持った嫌らしい行動、をまず思い浮かべるかもしれないけれど言葉そのものにはどうも悪意の有無は含まれてない様子。ウェルズ氏の言葉の中にある「無邪気な卑劣さ」とはまさに、私が日頃接している子供たちの、無自覚で愛おしい嫌らしさなのかもしれない。
生まれつきの「卑劣さ」
子供たちは往々にして、ときにこちらが恐れ入るほどに図々しく、いやらしく、自分の主張を押し通そうとする。年齢が上がるごとにその手練手管は磨かれていき、表面的にはわかりにくくなっていく。
じゃあその卑劣さの根っこにはなにがあるんだろう。
子供たちはアピールします。
「私を見て」
「僕をほめて」
「私を最優先にして」
「僕だけ特別扱いして」
その欲求は、この世に生まれ出てすぐから体を動かしているのかもしれない。乳児のお世話をしているとまだ意志の存在すらあやしいその小さな生き物が持つ欲求のままに振り回されていることに気づくことがあったのを思い出します。彼らはまだ言葉を発することすらままならないころから、周りの人間に自分を最優先してもらいたいという欲求を発信しながら生きているのかもしれません。
「卑劣さ」の根っこにあるもの
なぜ彼らはその「卑劣さ」を持って生まれてくるのか。それは、その方が生き残りやすいからかもしれません。兄弟のなかで、家族のなかで、たくさんの子供たちのなかで、自分により多くの栄養を、より多くの愛情を受けた方が生存の確率が上がっていく。小さな赤ん坊はそれを本能的に知っているのかもしれません。
この本能的な動きは、小さい子がいる家にさらに赤ちゃんが生まれると目の前で見ることができるかもしれません。我が家の次男が生まれたのは長男が1歳8ヶ月のとき。寝かせた赤ん坊を可愛いと眺めていたかと思えばその頬をぎゅっとつまんでみたりする長男に手を焼いていました。
赤ちゃん返りやこうした兄弟間の闘争の根っこにあるのは本能的に相手より自分を可愛がってもらおう、相手を蹴落とそう、という心理が働くから、と当時何かで読んだのを覚えています。自分と同じ養育者に育てられている弟を、理性では可愛いと思っているけれど本能的には競争相手としてとらえてときに攻撃的な感情が表にでているのだ、と。
「卑劣さ」と自尊感情
彼らが持って生まれた卑劣さ、それは、果たして忌むべき対象として成長とともに減少させていかねばならないものでしょうか。弟を攻撃するのは良くない行ないですから制止せざるをえない。でも、その湧いた感情はどうだろう、湧かせてはならない感情だったか、私はそうは思いません。
私を大事にしてほしい、という感情そのものは、成長していくうえでとても大事なものだと思うのです。そして、幼少期にその感情を周囲の大人に大事に守って来てもらうこと、それが、基本的自尊感情を育てることにも繋がっていくんじゃないか、と。
周りから大事にされて初めて、自分でも自分を大事にすることができるのではないか、と思うのです。
「卑劣」であることと「卑劣な行ないをする」こと
切り分けねばならないのは、たぶんここだと思うのです。
私も含め、子供たちも、そして大人たちも、みんなどこか卑劣であり、愛する人に自分を最優先して欲しいと思っていて、そして、自分を大事にしたいと思っている。
その卑劣であることは、恥ずべきことでもない、誰しもがそうであること。
でも、だから卑劣な行ないをして良いわけではけしてない。
卑劣さを持つ自分をその感情もまるごと含めて愛され大事にされていくなかで、成長とともにその卑劣さを行いに表すことは自分のためにもまわりのためにもならないということを私たちは学んでいくのかもしれません。
おわりに
子供たちのなかでは卑劣な行ないを見かけるケースもよくあります。そんな場面を見ると大人としてつい「あの子は意地が悪い」「あの子は卑劣な子だ」と評価してしそうになってしまうことも。
でも、子供たちは元来どの子も卑劣なのだ、というスタート地点に立った時、彼らは根っこから悪い子なわけではけしてないのだろうと思うのです。誰しもが持つ卑劣さをコントロールすることが難しかったり、方法を知らなかったり、誤った方法を学んでしまっていたりするだけかもしれない。
私たち大人は、その卑劣さを卑劣な行ないで表さない術を知っているにすぎないのかもしれないなぁと考えたりしています。