スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

窓口対応にキレた話から考えた、クレーマーにならないように窮状を訴えるスキルのこと

 

発端はこの記事に取り上げられている漫画です。

 

気になったのは、私も同じような経験があったから

自分が同じように当てにしていたものが用意されておらず困ってしまったら…

過去を振り返ったとき、似たような場面で同じように動揺して必死に窮状を訴えていたような記憶があります。

そして、窓口の方の対応が冷たく感じで同じように「わかってもらえない…」と悲しくなったり、その悲しさがつのって怒ってしまったこともあったなぁと振り返ったんですね。

 

私とこの漫画を書いた方に共通しているように感じたことがあります。

それが、漫画の中盤に描かれていた患者としてのスタンスの部分。

 

医者や病院に対して逆らわないようにしていた、治療してもらっているのだから信頼しないと、と考えていらっしゃる。

 

医者から薬を提案されている場面で、副作用に対する不安があるのにそれを口に出さずに受け入れる様子が描かれています。

 

ここで、あっ、と思ったんですね。

 

思い出した、三男の入院時のエピソード

赤すぐさんの連載に書いたことがあるエピソードなのですが、昨年三男が大ケガをして救急搬送され、翌日に大きな手術、そして半月ほどの入院と退院後2ヶ月ほどの車椅子生活をしました。

 

病院に来てすぐの処置から手術前のいろいろな検査などお医者さんや看護師さんがきてなにかしようとするたびに三男は

「しゅじゅつってなに?」

「いやだ」

「こわい」

「なにをする?」

「そしたらどうなる?」

と何度も何度も口に出します。

 

その度に手を止めさせてしまうのが申し訳なくて、私はその度にすいませんすいませんと思っていたし、それを言葉や態度に出したり、三男を制しようとしたりしていました。

 

でも病院の方はみなさん快く三男の不安に答えてくれるんですね。

 

手術の前にもお医者さんや看護師さん達が何度も顔を出してはどんなことをするか詳しくお話をしてくれ、三男が口にした不安についても嫌な顔ひとつせず「そのときはこうするよ」「そうはならないよ」とひとつずつ答えてくれます。

 

不安をバンバン口にしてしまう三男を前につい「すいません、色々言っちゃって…」と言ってしまいました。


そしたら看護師さん、きりっと笑いながら「言ってくれないとわかりませんからね〜」って言ってくれたんですね。

 

言わないで怖くなってしまったりする方があとあと大変で、不安なことや気になることはどんどん言ってくれた方がこちらもなにをすればいいかハッキリするから分かりやすくてかえって助かるんですよ、だから何かあったらもっとどんどん言ってくださいね、と笑いながら話してくれました。

 

たしかに不快や不安をバンバン吐き出していた三男は手術室に入るときには看護師さんに押される車椅子から私たちに手を振ってくれるほど余裕を見せてくれました。

術後の入院生活も嫌がることなく安心して過ごしていたように思います。

しっかりお話ができた病院の人たちを信頼することができていたからなのかもしれません。

 

不安ややってほしいことをうまく言葉にできていなかった自分

入院する時に病院で見かけたポスターにも、看護師さんが言ってくれたのと同じことが書かれていました。

 

痛い、辛い、不安…気持ちを伝えてもらったらそこからあなたに寄り添う医療ができるようになる、そんなニュアンスのことが書かれていた記憶があります。

 

三男の言動やそれに答える病院のみなさんの対応を見ていた入院生活。

その中で、自分がいかにこれまで必要なことを伝えずにいたのかを痛感したんですね。

 

言われるままに従うのが良い患者だと思っていたような気がします。

でも自分の中の思うことをうまく汲み取ってくれないお医者さんや看護師さんに出会うと「あそこはよくないな」とか「合わないな」と思ったこともあったなぁと。

 

それは医療に対してだけではありませんでした。

学校に対しても先生方にはなるべくいろいろ言わないのが良いと思っていたような気がします。

 

自分は気持ちや要求を言葉にするのはあまり得意ではないのかもということ。

三男を見習って、病院でも学校でもいろんな場で、もっと気持ちを言葉に出していい、その方がお互いのためにいいのかもしれない、と思うようになりました。 

 

自分ならどうしただろう、と考えて見えてきたもの

漫画を読み返して、いまの自分ならどうするだろう、と考えてみました。

漫画のなかで主人公さんは窓口で訴えているんですね。

自分は医師にきちんと頼んだということ、CD-ROMがないと役所への申請ができないこと、今日はこの足で役所へ行く段取りでスケジュールを組んでいること、出直すとまた予定も狂うし体調も悪いなかでやっているのに、ということ。

 

さらに言葉にしない思いとして、こうならないように付箋を使ったりして丁寧にお願いをしていることやレントゲンをとるために医者の言うなりにわざわざ出直してまで撮影をしてもらっていること…

 

ここまで言ってるのに、やってるのに。

 

でも病院の窓口の方は「私に言われても…」という雰囲気。

 

そして、噛み合わない会話。

どこに食い違いの要因があるのか、を掘り下げてみます。

 

訴える側が見ているものと、訴えられる側が認識しているもの

主人公さんと窓口の方の話が食い違った要因のの1つめはお互いが考えているスタンスのズレだと思うんですね。

 

主人公さんは窓口の方を『病院の人』として訴えかけています。今回の診断書を取り扱うすべての方を代表する存在、つまり、ミスの当事者とみなして窓口の人と接している

 

でも窓口の方はご自身のことを『誰かが用意したものを手渡すよう指示された役割』、つまりミスしたのは自分ではない、と認識して主人公さんと接してる。

 

ここに1つ目の要因があると思います。

 

求めているのは何か

食い違いのもう1つの要因に見えるのは、主人公さんが求めていることが相手にうまく伝わっていないのではないか、ということです。

 

窮状は訴えているんだけど「今日出してもらわないと困るんですけど…」という、下手に出ながらなんとかしてもらおうという雰囲気は読めるのですが、それは要求としては100%のうちの100をごり押ししている状態で、向こうには「交渉しようとしている人」ではなく「無茶を言っている人」と受け取られてしまっている。(だからその場を納めるために帰そうという方向に対応が向かってしまう)

 

キレる前の段階で

「そちらのミスなので迅速な対応を望む、最短でいつ用意できるのか」

という対等なスタンスでの交渉に臨んでいるか、というとそれが十分でないようにも読めるんですね。

 

もしいま、私が訴えるなら

もしいま自分が直面したら…

①こちらは間違いなく頼んだのだから病院側でミスが起こったのは事実、まずそれを認め謝罪するのが筋。ミスをしたのが窓口ではないというならミスをした担当者本人やそこを統括する上司、すぐにわからないならわからないで然るべき関係者がミスを認めていただきたい。

 

②ミスを認めた上で、今ここにCD-ROMがないのは仕方ないとして、リカバリーに最善を尽くしてほしい、つまり、今から当たり前の時間をかけて用意するのでは困るわけで、最短でいつ出来上がるのかを明確にしていただきたい。

 

この2点を主張するだろうな、と思ったんですね。

 

逆に考えると、ミスのせいで予定が狂って窓口に困窮を訴えているところで向こうから「こちらのミスでご迷惑をおかけして大変申し訳ない。急ぎ用意をするので一時間待ってもらえないか」と先に言われたら溜飲は下がりやすいかもしれない。

 

要点は2つ。

①ミスがあった事実を認める

 =当事者同士で事実確認をしどこに非があったかを共有する

リカバリーのために最善を尽くす

 =100%の補償ができない可能性も含め、

  非の割合が高い側が最善の努力の姿勢を見せ、

  双方で落とし所を見つける話し合いが成立する

 

ここまで考えたところで、じゃあなんで現実がそううまくいかないんだろう、と思ったのでそこを掘り下げてみます。

 

モンスタークレーマーと届かない訴え

漫画に描かれていた主人公さんは一生懸命窮状を訴えていました。

でもその思いは届かず最後に怒ってしまい向こうはそれに応じるように急に対応を早めてくれる結果になってしまいます。

これでは言う側は「キレれば話が通る」という経験を積むことになるし、病院側からは「この人は思うようにならないとキレるから気をつけて」と思われてしまう、意図せずモンスター認定されてしまうかもしれない。

 

なんでそうなっちゃうか。

前章の要点にあげた2つが鍵になると思います。

1つ目の、事実確認の話し合い、まずこれが成立するか、ということ。

そして2つ目の、落とし所を見つける話し合いが成立するか、ということ。

 

この2段階の話し合いが成立する要素が「お互いに」ないと無理なんだろうなぁと思うんですね。

 

今回話題にあげた漫画の件だと、患者さんの側にもこの話し合い交渉に持ち込むスキルが、窓口の方の側にもミスがあった事実から起こっているこの話のこじれに対応するスキルが、お互いにそれが備わっていたら、話の流れはもっと違っていたんじゃないか、と思ったりしました。(もちろん漫画から全てを汲み取るわけにはいかないので、憶測に過ぎませんが)

 

結局何が言いたかったかを振り返る

なんかだらだら書いてたら長くなったのだけどもうまとめ直す気力も体力も時間もないのでこの辺で締めようと思いますが、要は、「話し合うスキル」って意外とみんな持っているようで持ってないんじゃない?っていうのを感じる場面が最近結構あって、それについてこの漫画でも同じような引っかかりを持ったよって話でした。

 

余談ですが、一度お話を聞いたことのあるでかい障害児親の会のお母さんから教えてもらったことがあって、新入りの親御さんにまず勧めるレクチャーが「学校との交渉スキル」なんだそうです。

 

まず、声のトーン、話す調子、スピード…と言った「喋り方」

そして、何をどう求めていくかという「交渉術」

 

それを身につけておくと学校との話し合いが格段にやりやすくなるよ、というお話を聞いて目から鱗がボロボロと落ちました。

 

もちろん、誰でも自然に身につかなくても仕方ないし、どうにも苦手なものはあると思う。

でも、ひととおり読んで「あれ?自分も?」って引っかかりを感じる人がもしいたら、訓練次第で交渉が少し上手になる可能性もあるかもしれないよってことは頭の片隅にあると全然そこからが違ってくるかもしれないなぁと思ってダラダラと長く書き連ねたのでした。おしまい。

「書く」

はてなブログに初めてのエントリを投稿したのはいつだったのかと遡ってみた。

2013年9月9日「とりあえずはじめてみた。」というタイトル。

当時はTwitterのフォロワーもそう多くなかっただろうし、大してアクセスもなかっただろうこの記事を初めて書いたのが、おそらくは私の1つの転機だったのだろうと思う。

 

最初のエントリから16日後に書いたこのエントリがなぜか大きな反響を得て、初めて別メディアへの転載の依頼をいただくことになった。

 もらったDMの中身を読んでも何がどういうことなのかも全然わからなかったし、詐欺なのか、何か大きなものに巻き込まれるのかととても動揺したのを覚えてる。(実際にはただ転載されただけで何の影響も何の被害もなく、アクセスが増えるでもなく、良くも悪くも何もなかった)

 

2ヶ月後に書いた記事が、もう一つの大きな波になった。

この少し前から育児のストレスのことや夫とのいさかいのことに触れることが多かったように思う。今でもこのエントリは毎日検索からのアクセスがあり、記事を更新しなかった日はいつもアクセス1位にずっといる。

 

それを見るたび、あぁ、私が通って来た道で同じように悩んだり苦しんだりもがいたりしているお母さんが今もいるんだ、と思う。

 

この、通って来た道を振り返りながらできることはないだろうか、というのは私の中のひとつの大きなテーマとして、今も自分の中にずっとあるような気がする。

 

Twitterのフォロワー数が増え、ブログへのアクセスもおかげさまで増えていく中で再び私に突然飛び込んで来たもの、それが「原稿の依頼」。

 

初めての寄稿依頼ははてなを通した楽天の「それどこ」で。

srdk.rakuten.jp

「自分担当の編集者」という方がサポートしてくださった記念すべき記事。

初めて「記事そのものに対価としての報酬を受け取った記事」にもなった。

 

これが、私の2つめの転機。

「書く」ということが私の仕事のひとつになった。

収入としては微々たるものだけれど、初めての入金があった時は記帳したATMの前ですごく嬉しかったのを覚えてる。

 

会社員、妻、お母さん…それまでにいくつかあった私の肩書きの中に「ライター」が加わった瞬間。

 

そうか、この自分が何者かのことを書いた記事でブログ大賞をいただいたんだった。

 

初めての依頼をもらった日から今日まで、他のライターさんにははるか及ばない申し訳ないようなペースではあるけれど、少しずつ少しずつ、書かせてもらっている。

お話をいただくメディアもじわじわ増え、連載をもたせてもらえる栄誉も得た。

 

ブログの更新もたどたどしくも続く。

 

そして、その間に子どもたちはだんだんと大きくなった。

まだ生まれたばかりだったような気がする三男は小学生になり、手がかかる次男の発達障害がわかりたくさんの人に支えられた彼は学ランを着て登校する中学生になった。

 

私も育った。

Twitterのフォロワーは気づけば1万を超えていた。

ブログの読者数も2000近く。

夜泣きで寝られなくてボロボロの頃を支えてくれたTwitterやその頃のことを書いたブログを通して、自分の思ってたことはこれだったんだ!と喜んでもらえたり、救われたと言ってもらえたりもする。

やんわりとした不思議な絆が、じわりじわりとつながっていくのを感じて、とてもうれしい。

昨年度は発達障害のある子の親としての経験が少しでも役に立てばと受けた講習が修了し、私の肩書きの中に新たに「ペアレントメンター」が追加された。

ここから見えるものを通して、また何か始められないか、と少しずつ計画を立て始めている。

 

「お母さん」「妻」として書き始めたブログ。

そこから生まれた、ライターとしてのイシゲスズコという私。

アレントメンターという立場からの記事を書いて欲しいというありがたいお話もいただいていたり、まだまだ広がっていく予感がしている。

 

まだまだ大きくなるよ。

まだまだ広がっていくよ。

 

たくさんの方に読んでいただきながら、今日も私は書く。

書くことで見えてくるものが、自分の中にある限り。

質問箱へのお返事vol.2 〜登園渋りのお子さんへの対応について

今回はこちらのご質問へのお返事をまとめますね。

 

初動としての正解と、結論

バス通園から送迎に変えたことで問題が解決している、ということはお子さんにとって登園渋りの原因になっていたのは園内ではなくバスの車内が嫌だったから、ということなのかな、と文章からは読み取れます。

と、いうことから考えると、今回の夫さんの判断である「バスをやめる」は正解ですよね。

 

お子さんにとってのネックになっていた部分(今回は「バスに乗ること」)をやめて、本来の目的(今回は「登園するということ」)を可能にした、英断だと思います。

 

さて今回のお悩みの中身はそこではなく、親サイドでそれをやってしまってよかったのか、ですね。

 

結論から言いますと、今回のケースに限らずなのですが私は<言ったほうがよかったかな>と思います。

 

なぜ「言ったほうがよかった」のか

なぜか、の部分を今回のケースの内容に沿って細かくお話ししましょうね。

 

登園渋りの理由

まず大事なのは「なぜお子さんが登園を渋るようになったか」の部分です。

文中では泣くのをからかわれることが書かれていますね。

もともとお家の方と離れることなどの不安があって泣いてしまうのをからかわれて余計辛くなってしまったのかなと読めました。

 

登園渋りという問題が起こる背景にあるのは、お子さん自身の中の問題もあり、また、からかうお子さんたちの問題、そしてそれを制することをしない園関係者の問題もあります。(もしかしたら他にも複合的な問題が潜んでいる可能性もありますがそこは想定のしようがないのでスルーしますね)

 

この「誰がどんなふうに関わって問題が起こっているのか」が大事なんです。

 

問題に誰が関わっているか

子供に関するトラブルが起こった時、一方にだけ改善の必要がある問題があるケースはほとんどありません。100%無いと言い切ってしまいたいくらい、かなり高い確率で双方に、またその場にいる関係者全員に、改善のために何かしらできることがあります。

 

ここで勘違いしてはいけないのですが、親がやるべきは「誰が悪いか」という犯人探しではありません。

「誰がどうしたら起こっている問題の再発を防げるか、改善できるか」という、改善点探しです。

 

今回のケースでも、悪者探しをしても何のメリットもありません。

からかうお子さんそのものが悪いわけでも無いし、バス担当の先生がどんな指示を受けているかもわからないのでその場の対応が正解だったかもわかりません。

 

ただ「バスを嫌がって登園を渋る」という問題が起こっている以上、そこに関わる当事者全体にそれぞれ何かしらの「改善したほうが良い点があったのではないか」と私は考えます。

子供に直接改善を促せるか、というとそれは難しいですね。よそのお子さんですから当たり前です。

でも、幼児教育のプロとして子供と接している人にとって携わる業務の中で起こった問題については知っていていただかないといけないし、改善できるところがあるならそうして欲しいところです。

 

その、改善できる点があるかどうか、について向こうが考えるためには、こちらが問題に気づいていること、その内容を丁寧に知らせなくてはなりません。

 

対立ではなく、連携を

今回のように親の側で手段を講じることで解決のような状態に持っていくことができることは低年齢であるほど多いです。

でも逆に、年齢が上がっていけばいくほど親の側だけではどうにもならないことの方が増えていく傾向があるように思います。

今回はとりあえず小手先の対応で解決を見ていますが、今後もこのやり方でやっていけるか、というとちょっと無理があるかもしれないなぁとも思います。

 

というのも、今回のようにこちら側だけで対応してしまうということは裏を返せば「園に対応してもらえないと諦めている」状態とも言えます。

バスの中で先生がからかいに対処してくれなかったことで夫さんや質問主さんの中で、園に対する信頼が失われてしまっているのかな?と思いました。

通い始めでそんな場面を目にしてしまったら、それは仕方のないことかもしれません。

 

ただ、仰るようにこれからも登園は続き、また下のお子さんの入園も控えていらっしゃる。このままこの園に通い続ける中で、不信感が残ってしまったままなのはあまり良くないのではないかな、と思いますし、親が預ける相手を信頼していないことは子供にも伝わってしまったりもします。

 

何かトラブルが起こった時、幼稚園の先生や学校の先生方と親は対立関係になってしまいやすい存在だったりするんですね。でも私は、子供を真ん中にしてそれぞれに連携する、協力者のような存在だと考えるようにしています。

 

今回のケースも、バスの担当の先生の資質の問題もあったかもしれないし、何かしら別の理由があったのかもしれない。それはわかりませんが、少なくとも質問主さんと夫さんが先生の対応に不信感を抱いたのは確かだと思うんですね。

 

そこは、こちら側だけで対応してしまうのではなく、気になるところはちゃんと伝えた上で信頼関係を築いていきたいという意志を示し、園には園なりの対応策を考えていただく必要があるのかなと思いますし、そういうやりとりを繰り返していくことで信頼関係ができていくのではないかな、と思います。

 

交渉の仕方をちょっとご紹介

登園を渋っているお子さんのことで困っている段階で、どう交渉したらよかったのか、と思われるかもしれませんのでちょっとノウハウをご紹介しましょうね。

 

まず大事なのは「こちらの要求を100伝えて100飲ませることを考えて望まない」ということです。それをやってしまったらモンスターペアレントと呼ばれるものになってしまうかもしれません。

 

100のところに理想となる解決(今回ならばバスに笑顔で乗って登園すること)を置くとして、100は求めない、それを押し付けない、というのはまず表明します。

 

これは

「あなたがたの敵ではない」「協力関係でありたい」

という表明でもありますね。

 

こちら側としてはここまで譲ることは想定している(今回は親の送迎ですね)として、どういう問題があるかを双方で把握し共有し、園としてはどういう対応を見せてこちらに寄り添ってもらえるのか、というのを求めます。

 

私がツイッターでよく触れる「落としどころを見つける話し合いをする」というやつです。

 

とりあえず園そのものが嫌になるのを避けたいので当分はバスをやめて送迎で対応をしようと思う、ということ、ただ、いずれバスに喜んで乗ってくれることを目指したいということ、そのためにはどんなことが必要かを「一緒に考えて欲しい」ということ。

 

園関係者がまともであれば、この働きかけの段階で園側の対応のどこがまずかったかを考えてくれると思います。

また、どういう対応をしていくよう指導していくか、からかう園児に対してはどういう対応をするか、など「園としてできること」を出してくれるのではないかと思います。

 

おわりに

途中でもちょっと触れましたが、園側に言わない、ということは親としては園には対応してもらえないと諦めているからかもしれません。

しかし園の側からしたら、問題があることに触れないまま親だけが対応してしまうことで「自分の子供側だけの問題と親が把握している」というメッセージに受け取られてしまう可能性もあり得ます。それは本意ではありませんよね。

 

園の対応について疑問を持つことやそれに対して聞いたり話したりすることそのものを恐れる必要はないと思います。

「どういうことですか!」と突然怒鳴り込んだり、要求を100%飲ませようとゴネたりせず、「この対応にはどういう意図があったのか」「こちらはこういう風に困っているけれど、いい方向に行くように一緒に考えたい」と申し入れることは何の問題もないですし、むしろお子さんを真ん中にしていい関係・いい環境を築くために双方のメリットがあることですから、どんどん気になることをお話しして良いと思います。

質問箱へのお返事 vol.1 〜特別支援学級に通う小2のお子さんに関するご相談〜

以前より色々と利用している「質問箱」で、お返事をしたはずが流れてしまったようで再度ご質問をいただいてしまいました。(日頃のツイート数の多さで埋もれてしまったと思われ、本当に申し訳なく)

 

これは何か対策が必要ではと思い、取り急ぎ試験的にブログを使って回答をまとめるというのをやってみようかと思います。

 

今回いただいた質問文画像にこのブログのリンクを貼ります。

また、以前いただいた質問文への回答はこのツイートから始まったツリーになっています。

 

 

今回は、この回答ツリーを再構成する形でブログ記事として書いてみるという試験的な投稿になります。

 

①まず、お母さんの気持ち

質問箱へお返事するときによくやることですが、問題を切り分ける作業をしてみます。

病院をかえるかどうか、というお子さんに関する行動の前に、まず保護者としての質問主さんの気持ちをどこでどう整理していくか、というのが先かな、と思います。

 

ハンディのある子の保護者としての不安な気持ちや日々の悩みをどこで吐き出すか、という課題です。

 

Twitterなどのネット上でもいいし、リアルの人間関係でも良いと思います。

できれば地域の親の会など、定期的に座談会や勉強会などが開催されていて同じようなハンディを持つお子さんの保護者が集まって雑談ができる場で参加しやすいところがあるといいなと思うのですが、見つけるのはなかなか難しいですよね。

 

私も、今参加している親の会へはたまたま次男のことを知った他の兄弟の同級生保護者のお母さんがよかったらと誘ってくれたんですが、お誘いを受けなかったら存在自体も知らないままだったと思います。

 

ホームページを持っているような大きな親の会もあるし、私が参加しているような小規模でたまに集まってお茶会をする程度のところもあり、そういうところは会員募集の告知をしていたりもしなかったりするのでなかなか簡単に見つけて入って、はできませんよね…。

 

お住いの地域名で検索をしてみたり、支援学級の他の保護者さんや担任の先生、自治体の相談の窓口や相談支援事業所など情報を持っていそうなところに問い合わせてみたり、通っている病院で親の集まりが開催されていないか聞いてみたりしてはどうかな、と思ったんですね、でもそれは、あくまでも質問主さんが今の段階で気が向けば、やってみようという余力があれば、というお話です。

 

 

そのために無理をしては元も子もありませんから、そこへの心理的なハードルが高ければ無理は禁物です。もちろん、簡単にそこに繋がれていないからこそこういう形で私に声をかけてくださってるのかもしれない、というのは私にも想像がつきますし。

 

「別の話す先を見つけなきゃいけない」という義務のお話ではないんです。

「自分の不安はどこかに話して整理すると良さそうだ」ということを知ってるかどうか。まず、そこが第一段階だと思うんですね。

それを知ってるかどうか、意識しているかどうか、でそれ以前とは気持ちの置き方がガラッと変わってくるんじゃないかと思うのです。

 

もちろん、その不安の整理の矛先は必ずしもリアルでなくてもいいと思います。

私自身もTwitterの上で吐き出すことも多いですし、同じ発達障害のある子を持つお母さんフォロワーさんたちとクローズドの場で話して発散することもとても多いです。

リアルだけが居場所ではありません。Twitterで同じような障害のある子のお母さんたちと繋がるという手もあるし、リタリコさんの発達ナビのような特化したサイトで相談したりするのもアリだと思う。

そして、私への質問として送ってくれても全然構わないです。

(お返事がうまく届くか、という大きな課題がありますが…)

 

2度目のご質問の中で、頼みの綱だった療育センターとも切れてしまって、と書かれています。やはり、そのような「どこか質問主さんが頼れるところ」が必要なんじゃないかと思うのです。

 

2度、私に不安な気持ちを綴って送ってくださいました。

もっと、使ってくれて構いません。こんなことが怖い、こんなことに不安がある、もっと書いてくださっても大丈夫です。

 

②お子さんの現状をどうするか

切り分けた1つ目の課題は、前述したお母さんご自身の気持ちをどうするか、でした。

2つ目の課題は、お子さんのことでどう動くか、ということですね。

私ならどうするだろうと考えましたが、病院に関して不満というか、満たされない気持ちがあるのなら転院の可能性も含めてセカンドオピニオンを取りに行くかもしれないなと思います。

質問主さんも別の病院にも行かれたと書かれているのですが、そちらでも納得のいくようなお話は難しかったでしょうか。

 

ひとつの可能性として、質問主さんがご自身の不安にとらわれるあまりに病院に強く不信感を募らせている可能性もあるかなとは思うんですね。

その不安の強さでその病院への認識を見誤っている可能性もゼロではないのかも、と。

 

なので、やはり1つめにお話した「ご自身の不安のケア」が最優先ではないか、と思うのです。素人相手に話していただいてももちろんいいと思いますし、メンタルクリニックを利用するのもひとつの案ではないかと思います。(もちろんそこへのハードルの高さがあれば無理は禁物です)

 

お話の中で気になったのは、お子さんの環境への不安のこと。

このままでいいのか、何かもっとできることはあるんじゃないか、お子さんの今へいろんな不安があるんじゃないかと思うんです。

「今、この支援体制が我が子にとっていい」と思えてないような、そんな印象があります。

 

お子さんが今通っている支援学級で受けている支援体制が今のお子さんにとっての最善なのか、そこについても不安や違和感があるのかもしれないなぁと感じました。

この辺についても、なんとなく感じていらっしゃる不安を吐き出しながら掘り起こしていって、どうしていくか先が見通せるような支援先とつながっていくという道もあるのかな、と思いました。

親の会などとの繋がりがあるといいんじゃないかな、と思うことの一つはそれがあります。似たようなタイプのお子さんを育てていたり知っていたりする方の経験からの助言が役に立ったりすることもある。別の学校の支援級の体制や支援学校の様子などを聞くことができたりもします。

 

そういう、視野を広げるための場を持つ、というのも不安を和らげるひとつの方法かもしれないなぁと思うので、ちょっと頭の片隅に置かれてみてはどうかな、と思います。

 

おわりに

とても長くなってしまいましたが、ひとまずこんな感じでまとめてみました。

気になることがあったらまた質問箱に送ってください。

ちょっとずつゆっくり、一緒に考えていきましょう。

 

「結局逃げ道あるわけじゃん」な父親像に対するイラっとした話。

こんなの流れてきてましてね。

domani.shogakukan.co.jp

よくみたらDomaniの2018年3月号に掲載された記事みたいですね。

 

母さんたちが「よく顔出せたな」と憤ってらっしゃる。

ええそのお気持ちよくわかります。

 

この記事を読んだ時に感じらイラっとした気持ち、なんかあったな〜と思い返してたんです。「サラメシ」でした。

 

最近、転職した夫は夜勤が多いので一緒に昼食をとる機会がちょっと増えました。

その日も木曜日に自宅で一緒にご飯を食べながら再放送の「サラメシ」を見てたんですね。

 

視聴者からのお手紙から取材をするコーナーに出ていたのは一人のお父さん。

妻と年長の娘さん、2歳の息子さんとの4人暮らし。

3年前に娘さんが幼稚園に入園する時に「卒園までお弁当を作ろう!」と一念発起。

その日から週3日のお弁当の日は家族4人のお弁当を作り続け、Instagramにアップ、取材が入ったのは娘さんの卒園前最後のお弁当、という、素敵なお話でした。

 

「パパの最後のお弁当」の入ったカバンを背負ってお迎えのバスに乗る娘さんを見送るお父さん、感動的な場面の中で私の脳裏には当然ですが浮かびます。

 

「最後?最後?息子さんいるのに?」

 

さすがサラメシです、さすが中井貴一さんです。

私のその疑問、最後にサラッとお父さんに告げられていました。

 

「息子さん、来年入園ですよね?お弁当、どうするの?」

 

お父さんはヘヘヘッと笑って「できればやりたくないかな〜」と本音をポロっと。

「でも作っちゃうと思うな〜〜」っていう中井さんの素敵コメントでそのコーナーは終わったんですね、うん、作っちゃうかもしれないよね〜〜って微笑ましくみましたよ、ええ、微笑ましく。

 

でもね、でもやはりモヤッとするんですよ。モヤッと。

「できればやりたくない」って言うその言葉に。

 

世の母さんたちに、いや少なくとも主婦としての私に、

できればやりたくない「からやらない」

がそもそも選択肢として無い。

「できればやりたくないな〜〜」とは愚痴ることはあっても「じゃあよろしくね」ってスライドできる先が想定できてるわけではないんですよね。愚痴っても結局夫に任せられるわけじゃないし結局自分がやるのはわかった上での「できればやりたくない」

 

でも夫という立場の人がそれを言う時、そのニュアンスは妻のそれとはかなり違うよな〜と思うんですよ。自分はスタメンとしてやってるけど交代要員は常にスタンバイされてる感じ、手を引くことになんの負担もない、配慮もいらない、引き継ぎの手間も必要ない、自分がそこに労力を割かなくてもいつでも妻が交代できる前提、にどうしても見えちゃう。

 

ええ、あのご家庭がそうだったか、あのお父さんがそうだったかなんてわかんないんですよ。あくまでも表面上そう見えただけで。

 

でも。

Domaniの今回の記事を読んで、あぁやっぱりそうかという落胆みたいなものがある。

世の母さんたちがあの記事に悲鳴をあげているのはそういうとこなんじゃないかなと思うんですよね。

 

最近妻と子供の喧嘩が激しくて、巻き込まれたくないから寝静まった深夜に帰る

ワーママのみなさんイラっとしたらごめんなさい!かなりセキララ「ワーパパ」の本音 | Domani

 うん、そこで何を揉めてるかに自分は介入しなくていいからだよね。

 

「お風呂に入れろ、着替えさせろ、絵本を読め…」と、降りかかってくるタスクの量がハンパない

ワーママのみなさんイラっとしたらごめんなさい!かなりセキララ「ワーパパ」の本音 | Domani

 うん、それ自分がやらなかったら妻がやってくれるからだよね。

 

結局さ、あんたらの家事育児には逃げ道があるんじゃん!!!

 

と叫びたくなったりもするわけですよ、毎日のご飯作りや子供らの世話、学校との対応、病気や怪我の対応に通院、もちろん自分がどうしてもできなきゃ誰かはやってくれるのかもしれないけど、それでも「ちょっと今日無理、よろしく」って簡単にバトンタッチできないことの方が多い。

 

そんな状況で日々家事育児に奔走してる(プラス働いてもいる)私にとって、逃げ道用意されてる上での家事育児はそりゃ楽だろうよ!!と思わず思ってしまう。

 

いや、それを言い出したら、じゃあローン背負って働いているお父さんは仕事に対する逃げ道はないじゃない、うん、そうなんだよねってなる。

 

「逃げ道をなくす」方向で平等になりたいわけじゃない。

結局そこに行き着くんじゃないかな、って思うんですね。


イラッとくるのは自分に逃げ道がなくて辛いから。

 

私も夫も、子どもに関わる人たちみんな、そこそこ逃げ道のある状態でやっていきたい。父さんたちが今ちょっと家事育児の逃げ道が多くて当たり前になっちゃってるのはそのままにして欲しくない、もうちょっと母さんたちの逃げ道のなさも理解してほしいし、できるところは寄り添ってほしい。

 

んで、父さん母さんの周囲の人たちも子を持つ親が逃げ道を持ちやすいような環境になるようにってちょっと考えてくれたらいいなって思う。

 

んで、母さんたちも自分の逃げ道をもっと用意していいしそうしやすい社会になるといいなって思う。

 

晩ご飯作るのめんどくさいけどカレー食べたくて、鍋に鶏手羽元と水ぶっこんで市販の飴色玉葱ペーストとメークイン切って煮たら美味しいカレーができた。

 

玉ねぎ丁寧に痛めなくても人参入れなくても、多分じゃがいもも入れなくてもカレーはできる、子供らも喜んで食べる。

 

炒めた玉ねぎ、超便利。

 

それでもめんどくさけりゃレトルトでもいいし、今日は父さんが作ってもいいし、みんなで外食してもいいじゃない、みんなでいろんな形で手を抜いて余裕持って、子供と笑う日がたくさんあるといいなぁとか、最初からかなりかけ離れたところに行き着いて、今日は終わり。

中学生の親になるということ

新学期を迎え、我が家の子どもたちもそれぞれが進級、次男は中学生になりました。

 

発達障害のある次男の入学に向けては、支援級か通常級か、どんな支援が必要か、本人がどんなスキルを身につけておくべきか、余裕を持って準備をして来たつもりでした。

 

それなのに「その日」が近づくにつれ、当人ではなく私の方が不安に潰されそうになり周りに心配されてしまうほどに、入学のプレッシャーは大きく私を襲っていました。

 

ちょうど一年前に長男を入学させた同じ学校、知っている先生も多く残っているし、特別支援コーディネーターの先生とは昨年度から何度かお会いしてお話をして来ているから次男のことも理解してくださっている状態で。

 

「何がそんなに心配なんだ」「考えすぎだよ」

と夫に笑われてしまうほど。

 

入学式当日の朝は過呼吸で倒れるんじゃないか、というほど緊張してしまい「あなたはこれまでしっかり準備して来たし、何かあったら俺が出て行くし、考えすぎないで大丈夫だから」と夫に声をかけられながら、なんとか次男と学校の門をくぐりました。

 

クラス分けが貼り出された掲示板の前には新入生の群。

友人と顔を合わせて嬉しそうに連れ立って昇降口に向かう次男とはそこでお別れをして、保護者は体育館へ。

 

途中で、式典の準備をしている先生方の中から長男の学年部の先生が顔を出して声をかけてくれました。

 

「お母さん!長男くんね…」と笑いをこらえながら話し始める先生。

 

「制服の背中、しわくちゃだったの、今日!」

 

「やってしまった!」と正直動揺しました。

次男の入学準備に気を取られて、昨日長男が制服をハンガーにかけてなかったかもしれないとか、今朝身なりを整えて出かけたかなんて頭からすっぽり抜けていたんですね。

 

苦い顔をして「次男の準備に気を取られて…」と言いかけた私に先生は笑いながら続けました。

 

「いいのいいの、前から見たらわかんないしね、それに、もう自分でできるようにならないといけない年なんだから、お母さんはほっといていいのよ」

 

 

「お母さんはほっといていいの」

 

ドスン、とボディブローを食らったような気がしました。

何日も前から次男の入学が不安で不安で、彼がうまく中学に適応できなかったら、学校で何か問題を起こしたら、勉強についていけなかったら…

その山のような不安の根っこにあったのは、他でもない私自身の怖さでした。

「何かあったら自分がそれをなんとかしなくてはいけない」

そう思い込んでいたような気がします。

 

「それが中学校なんだよ」

「中学の先生は何かあったら親じゃなくて子ども自身を中心に考えてくれる」

「だから、心配し過ぎなくても大丈夫だよ」

発達障害のある子を育てる先輩お母さんにこのことを話したら、そう教えてくれました。

 

私の不安をよそに、彼らの新しい生活は始まっていきます。

真新しい制服に身を包んだ次男は、慣れた様子で家を出て行くお兄ちゃんを追いかけるように早足で登校していきました。

その背中を見送りながら、中学生になったんだなと噛みしめている自分がいました。

 

発達障害があろうと、まだしっかりしないように私の目に映っていようと、彼は中学生になったんだなと改めて感じています。

 

私も、中学生のお母さんとして腹を括らねばならない、そう思った春の朝でした。

鉛筆削り禁止は教室の余裕のなさだと思ってほしい

新学期の空気が流れるTLに、こんな記事を見つけました。

学校のハテナ(3)鉛筆 教室で削ってはいけないの?|【西日本新聞】

「鉛筆は5、6本用意し、毎日、家で削ってきましょう」。福岡市の小学校に子どもが通う保護者に、学校からこんな連絡文が届いたそうだ。「教室で削ってはいけない」と受け止めている保護者も少なくない。

(中略)

 低学年ほど何かと気が散る子どもたち。授業中に1人が席を立ち、教室の端にある鉛筆削りまで移動すると、別の子がちゃかしたり、まねをしたりして、教室が騒がしくなる。そんな事態を想定し、授業に集中できるよう、家での鉛筆削り徹底を呼び掛けているという。 

 

一読して「自分たちの頃は当たり前に削りながら授業もできてたはず」「最近の子は気が散りやすい子が多いのか」と感じる方も多いのではないかと思ったのですね。

 

でも、教室の様子を見ていたらそういうことではないんじゃないか、と思うんですね。

ちょうどそれについて書かれたツイートがありました。

 

自分たちが子供の頃に比べて、今の小学生に課せられる内容はかなり詰まっていると思うのですね。

さらにそこに職員数減で人手も足りなくなっている。

 

鉛筆削りを極力学校でしないように、●●を持たせないように、学校からアナウンスされる色々なきまりのひとつひとつは「そんなに縛らなくても」と思うようなものも少なくありません。

 

でも、学校の実情として「それに対応してたらカリキュラムを終われない」という切迫した状況があるように見えます。

 

鉛筆を削るという行為でも昔ならてまどう子が1人2人いたところで余裕を持って対応できていたのだと思います。

でも今の教室で教員がその子に構う時間をとることで授業がスムーズに進められなくなってしまう。

なるべくその教員の手間を取らないような対策を保護者にお願いすることになり、結果、保護者の背負うものが増える。

 

これ、鉛筆削りだけの話ではありません。

一律同じような発達をする子たちばかりではない中で、遅れをとっている子たちは教室の中で対応しきれなくなる。

発達障害と診断を受けて別枠での支援を必要とする子が増えていることの要因のひとつはその、教室の中の余裕のなさもあるのだろうと私は思っています。

 

陰山さんがツイートで指摘する、弱さを持つ子にしわ寄せが、というのはまさにそのお話だと思います。

 

国が決めた教育課程を教員がこなすスピードについていける子、サポートできる親を持つ子だけが生き残れる、それが今の教室なのかもしれないと思ったりします。

 

もちろん、発達障害と一言で言っても様々で、特別支援に予算が割かれ人員が配置されて十分な支援が施されることが救われる子たちがたくさんいます。そこを拡充してほしいという気持ちは強くある。

 

でも、それと並行して通常級にもっと余裕が出たら、あの子もあの子も楽になったんじゃないかと思う顔が我が子以外にも何人も浮かびます。

 

「鉛筆削りを禁止するなんてバカバカしい」とひとつひとつのきまりにあきれるのではなく、なぜ教員がそんなことを言いださないといけないのかを考えてもらえたら、と思うのです。

それくらい逼迫した、余裕のなさが今の学校にあるのだということ。

鉛筆削りを授業中に子どもたちがはじめても余裕を持って授業が進められるような学校であってほしいと、願わずにはおれないのです。

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