はてなブログに初めてのエントリを投稿したのはいつだったのかと遡ってみた。
2013年9月9日「とりあえずはじめてみた。」というタイトル。
当時はTwitterのフォロワーもそう多くなかっただろうし、大してアクセスもなかっただろうこの記事を初めて書いたのが、おそらくは私の1つの転機だったのだろうと思う。
最初のエントリから16日後に書いたこのエントリがなぜか大きな反響を得て、初めて別メディアへの転載の依頼をいただくことになった。
もらったDMの中身を読んでも何がどういうことなのかも全然わからなかったし、詐欺なのか、何か大きなものに巻き込まれるのかととても動揺したのを覚えてる。(実際にはただ転載されただけで何の影響も何の被害もなく、アクセスが増えるでもなく、良くも悪くも何もなかった)
2ヶ月後に書いた記事が、もう一つの大きな波になった。
この少し前から育児のストレスのことや夫とのいさかいのことに触れることが多かったように思う。今でもこのエントリは毎日検索からのアクセスがあり、記事を更新しなかった日はいつもアクセス1位にずっといる。
それを見るたび、あぁ、私が通って来た道で同じように悩んだり苦しんだりもがいたりしているお母さんが今もいるんだ、と思う。
この、通って来た道を振り返りながらできることはないだろうか、というのは私の中のひとつの大きなテーマとして、今も自分の中にずっとあるような気がする。
Twitterのフォロワー数が増え、ブログへのアクセスもおかげさまで増えていく中で再び私に突然飛び込んで来たもの、それが「原稿の依頼」。
「自分担当の編集者」という方がサポートしてくださった記念すべき記事。
初めて「記事そのものに対価としての報酬を受け取った記事」にもなった。
これが、私の2つめの転機。
「書く」ということが私の仕事のひとつになった。
収入としては微々たるものだけれど、初めての入金があった時は記帳したATMの前ですごく嬉しかったのを覚えてる。
会社員、妻、お母さん…それまでにいくつかあった私の肩書きの中に「ライター」が加わった瞬間。
そうか、この自分が何者かのことを書いた記事でブログ大賞をいただいたんだった。
初めての依頼をもらった日から今日まで、他のライターさんにははるか及ばない申し訳ないようなペースではあるけれど、少しずつ少しずつ、書かせてもらっている。
お話をいただくメディアもじわじわ増え、連載をもたせてもらえる栄誉も得た。
ブログの更新もたどたどしくも続く。
そして、その間に子どもたちはだんだんと大きくなった。
まだ生まれたばかりだったような気がする三男は小学生になり、手がかかる次男の発達障害がわかりたくさんの人に支えられた彼は学ランを着て登校する中学生になった。
私も育った。
Twitterのフォロワーは気づけば1万を超えていた。
ブログの読者数も2000近く。
夜泣きで寝られなくてボロボロの頃を支えてくれたTwitterやその頃のことを書いたブログを通して、自分の思ってたことはこれだったんだ!と喜んでもらえたり、救われたと言ってもらえたりもする。
やんわりとした不思議な絆が、じわりじわりとつながっていくのを感じて、とてもうれしい。
昨年度は発達障害のある子の親としての経験が少しでも役に立てばと受けた講習が修了し、私の肩書きの中に新たに「ペアレントメンター」が追加された。
ここから見えるものを通して、また何か始められないか、と少しずつ計画を立て始めている。
「お母さん」「妻」として書き始めたブログ。
そこから生まれた、ライターとしてのイシゲスズコという私。
ペアレントメンターという立場からの記事を書いて欲しいというありがたいお話もいただいていたり、まだまだ広がっていく予感がしている。
まだまだ大きくなるよ。
まだまだ広がっていくよ。
たくさんの方に読んでいただきながら、今日も私は書く。
書くことで見えてくるものが、自分の中にある限り。