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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「こだわり」の中で生きているということ。


栗原類さんの告白

数日前のNHKあさイチという情報番組の中で、俳優の栗原類さんがご自身の発達障害について告白されたというツイートがTLにいくつも流れて来ていました。私自身は職場に居る時間で録画もできていなかったので番組そのものを見ることができず残念だったのですが、みなさんのツイートやまとめられた記事、また栗原さんご自身のブログなどから内容を知り、色々と考えるきっかけとなりました。

 

発達障害について少しずつ周知が進むなかで著名な方がご自身の特性を告白するケースがじわじわと増えているように感じていて、それが今まで気づかず無自覚に辛い思いだけをしていた人たちの救いとなれば、また気づきを得る人が増えることで受け入れる側の認知が進んでいけば、と願わずにはおれません。

 

番組の中で栗原さんご自身が語られていたという「こだわり」のことを今日は書いてみたいと思います。

 

「こだわる」とは。

「こだわる」「こだわり」という言葉を良い意味で使ってはいけないと私が知ったのは、小説「舟を編む」の中でした。元来、「ちょっとしたことにとらわれる」などの悪い意味合いで使われる言葉なのだとか。それが近年は「職人のこだわり」など徹底した妥協を見せない姿勢のように良い意味合いで使うケースも出て来ているそうで。

 

主に発達障害の特性の一つといわれている「こだわり」は、元来の悪い意味合いがしっくりくるケースが多いような気がします。他の人からしたら取るに足らないようなことがどうしても受け入れられないでいる様子。

 

栗原さんが例に挙げられていたという「ぴったりの時間に家を出る」とか「冷蔵庫の中の決まった位置にお茶が置かれていないと気が済まない」などの「こだわり」。

 

それぞれの、こだわり。

前者で有名なのは哲学者のカントでしょうか。毎日同じ時間に家を出て同じルートで散歩していたから散歩経路の住民は時計代わりに利用していたという有名な逸話が有りますが、私の身近な知り合いにも毎朝必ず同じ時間に家を出て出勤していく人がいるので、海外の珍しい事例、というわけでもなさそうです。

 

定位置に物が置かれていないと気が済まない、というのも、思い当たる方もいるのかもしれません。財布の中のお札の向きが同じでないと落ち着かないとかも似たようなものなのかなと思います。

 

私の、こだわり。

私自身も、特に理由は分からないけど気になってしまうことは生活の中でちらほらと有ります。最近気づいたのは、食べ物。私はどうやら、自分の脳みそが食べたいと思うものにぴたっと一致しないものは食べたくない、というこだわりがややあるようです。普段は家族とそれなりに食べているのであまり気づかないのですが、一人で食事をするとき(平日の昼食が多いのですが)に「何を食べていいのかわからない」という状況に陥る事が良く有ります。お腹はすいているのに、何を食べたいのかわからない。スーパーやコンビニで目の前に食べ物が色々と並んでもその中からこれ!って思うものに出会わなかったら手に取ることが出来ずに店内をウロウロして、結局何も買わずに出てきてしまうことも。

 

お昼休みの時間は限られているので結局ギリギリのところで「とりあえず何か食べないと」とおにぎりやゼリーなんかを一つ握って職場に帰るなんてこともあるし、結局食べずに夕方まで過ごしてしまうことも。

 

これを先日夫に話してあきれられたんですね、何か何でも良いから食べれば良いじゃない、って。あなたはそれが出来るの?食べたいと思う物じゃなくても?って聞いたら「出来る」と。

 

「こだわりだ」と気づくということ。

そこで初めて「あぁこれは私の、個人的な特性なんだ、こだわりなんだ」って気づきました。そしてそれをTwitterで呟いたら、とある方が「家族全員そうだったからそれが当たり前だと思ってた」という反応をしてくださっていて。

 

そこなんですね。こだわりというのは、他者と比べてみて初めて気づくことなのだということ、それに改めて気づいた瞬間でした。自分一人のなかで、それが当たり前なんです。生まれたときからずっとそうだったり、自然と湧いてくる感覚だったりするから。

 

でもその私の自然発生する当たり前のことが、他の人と共有できる感覚ではなかったのだということ。それが「こだわり」が悪い意味で影響を与える理由なのだろうと思うのです。

 

「こだわる」ことが悪い?

私自身は「こだわる」行為そのものが悪いとは実は思っていません。

ただ、その行為そのものが悪い影響を周囲に与える可能性はあるだろうとは考えています。

私が食べ物を選べないのは、誰にも迷惑はかけていないかもしれません。でも例えば食べたい物を決められずに昼休みを超えてもお店の中をうろうろしてしまって職場に戻れなかったら、周囲に迷惑をかけてしまうでしょう。自発的に食べ物を食べられずに空腹や栄養失調で倒れてしまったり、逆に何か大事な案件の途中で食べたい物を思いついてそれを食べに行ってしまったりしたら、やはり大問題です。

 

上記に挙げた例のように定時に動くことへのこだわりがある人が、時間を守って過ごすことに執着しすぎて決めている時間より早い時間の大事な用事に参加できなかったりしたら、やはり問題が生じてしまうかもしれません。

 

外と内と。

その、外部に影響が出るかどうか、それをコントロールできているうちは恐らくは、困りには繋がりにくいのかな、と思います。私が職場に迷惑をかけない程度に抑えているように、こだわりの数や程度に差はあれそういう風に調整しながら生活している方、思い当たる節のある方はたぶんたくさん居るのだろうなと思います。

私はこういうこだわりが有るから、と明言して周囲の理解を得て生活している方もいらっしゃるかもしれません。

 

「誰にでもあることだから」

こういう「こだわり」の話をすると「誰にでもあることだから」という反応が返ってくることはよくあることなのかなと思います。それはその通りなんですね。事実、誰にでもあるんです。程度や発現する頻度などの差はあれ、誰にでも思い当たる節が有る。誰にでもあるし、それを問題にならない程度に流して暮らしてるケースの方が多い。だからこそ理解されづらいのが、発達障害として支援を必要とする子や大人の「こだわり」なのかなと思います。

多くの人が思い当たりながらそれなりにコントロールして過ごしていること、それが、こだわりの数がとても多かったり、抑えが利かないほどにとらわれて他の生活に支障を来してしまうことがあったりしてしまう。

 

「誰にでもある」からこそ。

前にここで自閉症啓発記事として書かせて頂いたときにも触れたんですが、発達障害というのはON/OFFではない、連続体であって、どこに自分が位置するかという、そういうものだということ。そして個体がどこに位置するかではなく、困難の度合いは置かれた環境にも大きく影響を受けていくものだということ。

こだわりに関しても、同じだと思うのです。

誰にでもあること、誰にでも思い当たること、もし自分がそれを受け流しながら生きていけているだけのことでゆるやかに繋がった先にはそのこだわりがもっと多く、深い人がいるということ、その程度が違っているというだけなんじゃないかな、それが程度や環境に影響されてたまたま困難に繋がることもあれば繋がらないこともある、ということなのかなと、そんなことを考えています。

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