スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

母の日になると思い出す夫の発言のこと。


母の日を迎えると毎年思い出すことがある。

 

もうすぐ成人する長男が生まれて最初の母の日を迎えた時だったと思う。

まだ1歳にならない長男と夫と三人で過ごしたその日。

 

なんのアクションもなかった夫にほんのり不満を抱いた私は

「(長男)がまだ小さいからこういうときって父親が代わりに何かやったりするんじゃないの?」

と問うた。

 

夫の返答はこんなだった。

「あなたは俺の母親ではないから俺がなにかするのは筋が違うと思う。(長男)が大きくなって何かやりたいと思ったら、そのときにすればいいんじゃないの」

 

なるほど確かにそうだと思う気持ち半分、なんだか寂しいなぁと思う気持ち半分。

私が「お母さん」になってから初めての母の日は、そんなちょっと複雑な思いを抱いた日になった。

 

1ヶ月後の父の日には「(長男)が大きくなったら何かやってくれるかもしれないねえ」と私からは何もせず。

やり返したような形になってしまって大人気なかったような、でもそれでよかったような、やっぱりちょっと複雑な思いが芽生える日になったりもした。

 

 

先日の母の日は私にとって17回目の「母」として迎える母の日であったわけだけれど、まぁそうやって儀礼的な「母の日(父の日)のイベント」を意識しなかった我が家にとってはいつもの日曜日とさほど変わらない日で。

一緒にコンビニに行った娘が「母の日だから」とおこづかいでおやつを買ってくれたり、実家の母のご機嫌伺いに行ったり、とその程度。

 

この我が家のスタンスが正解なのかどうかは私にはまだしっくりくる答えが出ていなくて、子供たちにとっては「ちゃんとした母の日(父の日)の催し」を習慣づけてあげたほうがいいんじゃないか、というモヤっとしたものが頭のどこかに残っているような気がしていて、多分そのモヤモヤが、この日を迎えるたびに夫の言葉を思い出すことにつながっているような気がしていて。

 

整理したくてぐるぐると考える。

「母の日」という特定の日に感謝されないことは不満なんだろうか。

いや、今の私はとりあえずはそこに不満はない。

なんでだろう。

 

浮かんだのは、夫の日頃の言動で。

 

うちの夫、どっぷり九州男児の義父が君臨する家で育ったこともあり、家事育児を熱心にやるタイプではなく子供たちが小さいうちはそれで揉めることも多々。

でも、ことあるごとに私にねぎらいの言葉をかけてくれる。

冗談めいて言うことも多いのだけど、でもそうやって「私の負担をわかってくれている」という安心が今の私と夫の間に確かにある。

 

そしてその「わかってくれている」という信頼のようなものを私は私の4人の子供たちにも感じているような気がしている。

まぁ毎日はっきり言われるわけではないから、あくまでも日々の言動の中でそんな気がするだけだけれど。

 

あぁ、だから別に、特別な一日に特別な「ありがとう」を形にしてくれる必要が私の中にはないのだなぁ、と。

 

そして、あの母の日の特別な「ありがとう」は、「わかっているよ」のサインとして機能しているんだろうなぁ、とも。

 

毎日の暮らしの中で感じてはいても言い切れていない「ありがとう」「あなたの負担をわかっているよ」「あなたの頑張りに支えられていることを意識しているよ」という、「わかっているよ」のサイン。

 

労われた側にとっても「わかってもらえてるんだな」と確認できるサイン。

 

日頃の関係性の中で伝え合えばそれでいいのか、特別な日にサインとして伝えられたらそれで十分なのか、どっちもあったほうがいいのか、どれが正解なのかは私が答えを出せることではないのだろうなぁとは思う。

 

共同生活を送っているメンバーとの関係を良好に保つためには、やってくれていることにフリーライドしているように見えるより、感謝しているように見えるほうが良い。それは多分間違いない。

 

でも、日々その「あなたの負担をわかっている、感謝している」というメッセージを絶えず送り続けるのは大変だし、こちらが十分にやれているかを日々確認するのもお互いに煩わしかろう。

 

そういう意味では、「〜〜の日」という特別な一日を利用して普段伝えきれない「わかっている」「感謝している」を伝えるメリットは大きかろうなぁと思う。

 

発達特性があって相手にそれを伝えるのがなかなかに難しい民はこういうチャンスを存分に利用したほうがメリットが大きいような気がする。

 

「母の日」「父の日」「敬老の日」…この手のやつを「とりあえず儀礼通りにきっちりやる」を習慣づけておいたほうが将来的なメリットが大きいお子さん、というのが我が家にも確実に1人いる。

周りの人がさりげなくやっている感謝の言動を見聞きして覚えることが難しかったり、余裕がなくて日々伝えるのが難しかったり…

 

もう遅いかもしれないけどちょっと意識してみたほうがいいかもしれない、遅いかなぁ…

 

でもこういういわゆる「儀礼的な感謝」を「わかってほしい」側から求めるアクションがエスカレートすると悪名高い「二分の一成人式」とかにたどり着いていくのかもしれない。

 

「わかっているよ」のサインを伝える手段として役立ててはほしいけれど、こちらから圧力として押し付けたくはない。

さじ加減の難しさを感じながら、娘が買ってくれたおやつを眺めてちょっとニヤニヤしたりする、そんな昼下がりです。

スポンサードリンク