スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

質問箱へのお返事 〜支援学級へ行かせたいが夫に反対されている、というかたへ

質問箱にご相談をいただいたので、そのお返事です。

 

子どもがADHDと診断され、支援学級へ行かせたいと思っていますが、主人に反対されています。 このくらいは普通、行ったらみんなから変な奴だと思われる、などと言い、こうだから行かせたいと話してもたまたまでしょと言われて終わりにされてしまいます。 なんと説明したらよいかもうわからなくなってしまいました。 どうしたらよいか伺いたいです。

 

とのことです。

夫さんが首を縦に振ってくれたらそれで解決のようにも見えるお悩みですが、そう簡単にはいかないでしょうからゆっくり整理していきましょうね。

 

お子さんが発達障害と診断されたばかりだと思いますので、まだ色々と心も頭も整理がつかない段階ではないかとお察しします。不安もたくさんある時期ですよね。そんな時にパートナーとして並走してくれるはずの配偶者である父親が自分と同じ方向を向いてくれていない、言葉が通じない、とても苦しいと思います。

 

今の段階で質問主さんのできそうなこと、糸口になりそうなことを模索してみましょう。

 

①なぜ支援学級か、について

まず、ここを考える必要があるかな、と思いました。ADHDの診断とのことですが、その診断でイコール支援学級が妥当かどうかの判断は素人には難しい側面もあります。

「支援学級へ」という選択は質問主さんお一人が出された答えでしょうか。

それとも、診断を受けた病院の医師の見立て、学校の先生方の見解など、専門知識のある第三者の意見があってのことでしょうか。

お子さんの在籍が支援級が良いのか通常級がよいのかは、診断名や特性の状況だけから決めきれる単純なものとは言い難いです。

クラスの環境、担任の技量や見解、学校管理職の認識、学校全体の雰囲気、支援学級の状況など、色々な条件が複雑に絡んでいるし、どっちを選ぶにしてもギャンブルのような側面があるなぁと感じることがあります。

結局どの選択が子どもにとって正解だったのか、通わせている保護者にとっても簡単にはわからない、ということもあります。

今の段階で質問主さんが「支援学級が妥当」と判断している背景について、しっかりした理由が質問主さんの中にあるのかもしれないし、夫さんが説得できる材料が揃っていない可能性もあるのかもしれない。

短い質問文の中からはその辺りを深く掘り下げて知ることはできませんが、もし質問主さんの中で「支援級へ」という判断に関して絶対的な自信を持って夫さんにプレゼンできる材料がまだ揃っていないと感じる側面があるなら、その辺りの補強を考えるのも一つの策かもしれませんし、そこを掘り下げる過程で入級を検討している支援学級が本当にお子さんにとって良い環境かどうかも含めて色々と見えてくるものもあるかもしれません。

 

②賛同者や協力者は増やせそうですか。

まだ診断直後でしょうから、親同士の横のつながりというのも持ちづらい時期だろうと思います。私に質問をくださっているわけですからおそらくは身近に知識を持った相談相手もいない状態かなと思います。

 

そんな状況で、お子さんにとっての大きな岐路についての判断を下すのも不安が伴うのではないかとお察しします。

 

支援級入りを決めるか決めないか、の判断の前に、まずお子さんを知った上で相談相手になってくれる身近な存在の方ができたらいいなぁと思いました。

学校の特別支援コーディネーターさんなど、特別支援に関わる先生にお話の時間を取ってもらうのは難しそうですか。

学校外では、発達障害者支援センターや相談支援事業所、地域の親の会やペアレントメンターなどの相談窓口に繋がる方法があれば、それも良いと思います。

 

地域の状況、学校内の環境などを知る人ならなお良いと思います。

複数の方の見解を色々と聴きながら、お子さんにとってのベストは何かを模索するための情報を集める準備を進めておくこと、これは、支援級かどうか、という今だけでなく、今後長く続いていく育児の中でもきっと大きな力になっていくと思います。

 

ある程度の経験がある支援者や保護者は、ほぼ確実に「母親の意見に父親が反対している」というケースを知っています。質問主さんの状況で具体的なことを知った上で、どう対処していけばいいか、という答えを知っている人にも出会えるかもしれません。

 

 

③焦らずにまずできること

お子さんがADHDとのことですが、現状で即支援級に入らないとあとでものすごく大変なことになる、という可能性はそう高くないと思います。

片方でゆっくりと情報を集めて夫さんに対処するすべを少しずつ模索しながら、もう片方で今の環境の中でのお子さんのベストを模索する、ということもできるのではないかな、と思います。

 

現段階で学校の先生方がどんな見解、どんな対応なのかがわからないのでなんとも言えませんが、両親の希望が揃わなくては転級は叶わない訳で、それは先生方にもどうしようもありません。

支援学級を前向きに視野に入れているけれどそれが叶わないことを正直にお話しできそうなら、その上で通常級在籍の今の状況の中でお子さんにとってどんなサポートが可能かを模索する必要があります。

 

教室で補助の先生の対応がお願いできるのか、学習面でサポートをお願いできることがあるのか等々。

 

そこをお話しする中で「支援学級に転籍しないと叶わないこと」も同時に見えてくると思います。それはそれでまた、夫さんと話す材料にもなっていくかもしれません。

(ここら辺、本当はそんなことないのに学校の都合や先生の知識不足で「支援級でないと」と言われてしまうこともあったりもします。それに対処するためにも、地域の状況を知る先輩お母さんや支援者さんと繋がっておくのは大きな力になったりもします)

 

終わりに

一気に長文を突きつけてしまうことになったので混乱を誘ってしまっていないか、心配です。もしそうなら、本当にごめんなさい。

 

でもこれだけは確実に言えること。

今すぐに何かを判断しないと!決めないと!ってことはありません。

焦らなくても大丈夫だから、ゆっくりとお子さんをサポートできる力をつけ、助けてくれる人たちを見つけていきましょう。

 

ADHDがあるなら叱られてしまう機会が極端に多くなる可能性がありますね。

その辺の、お子さんの心を守るために叱りすぎないような対処を学校にお願いしておくこと。医者の見解があるとなお心強いです。

 

叱りすぎない、人格を否定するような叱り方をしない(これは私からのアドバイス

ふてくされさせない、キャパオーバーにしないこと。(これは、大先輩ふみきちさんのアドバイス

 

ADHDのある子たちはここを押さえておけば、あとのことは比較的先延ばしにしても大丈夫ではないかと思います。

 

最後に、上記の言葉をくれたふみきちさんの当該記事のリンクを貼っておきます。

fumikichi2525.hatenablog.com

 

焦らなくても大丈夫だから、質問箱でもDMでも、またゆっくりお話ししましょうね。

 

 

 

 

 

 

備忘録 お願いをすることと、相手の負担に想いを馳せること

相変わらず定期的にコンスタントに書くのは苦手のようです。

 

今日もあれこれバタバタとしているのだけれど、今朝次男が言い残したことがすごく印象的で忘れたくないな、と思ったのれ備忘録として書き残しておこうと思います。

 

次男が中学に入るときに私が懸念したことのうち1つが、荷物の重さに耐えられるかということ。

 

案の定、入学後に重い荷物に手こずっている様子が見られました。

先生とも相談の上で家での学習に使用しないテキストは学校に置かせてもらったりもしていましたが、それでも週明けや部活の道具が多い日など困る日は多々ありました。

 

次男の特性上、私が先回りして「送ってあげようか?」と声をかけることは控えてきました。一度そうすると彼の中でそれが当たり前になってしまうから。

 

1学期からこれまで、何度か、いよいよのところまで切羽詰まってから

「お母ちゃん、途中まで送ってくれる?」

と言ってくることがあり、その時は朝の家事の手を止め車を出して送ることもありました。

 

これを甘やかしと捉えるか、彼なりのヘルプが出せたことを評価すべきか、その線引きはとても難しいのですが、都度ヘルプが出せたことの評価と、頼まれた自分は家事の手を止めてやらなくてはならなくなることを忘れてはならないのだということを説明してきました。

 

そして今朝、私はお手伝いしている読み聞かせボランティアの当番の日で、いつもより少しバタバタしていました。

いつもなら、小学生を送り出し、洗濯物を干し終えてから出てちょうど良いくらいのタイムスケジュールです。

 

そこに次男が「お母ちゃん、荷物が多いから送ってくれない?」とかなりギリギリのところで言ってきました。

 

「次男くん、ごめん、送ってあげたいけどお母ちゃんは洗濯物を干さないと出られない。」

「読み聞かせの時間に遅れるわけにはいかないから、洗濯物を干して送っていたら間に合わないかもしれない」

 

そう話すと、いつも通り要求の通らなかった次男は軽くパニクっていたようでした。

 

バタバタと小学生を送り出す用意を手伝いながら、次男に

「君を送るお母ちゃんの負担が増える分、自分はどうすればいいと思う?」

と聞いてみました。

少し考えて「何か手伝える?」と言った次男。

「洗濯物を干してくれたらお母ちゃんがその分の手が空くよ」と伝えると、ゆっくりではありましたが洗濯を干してくれました。

 

洗濯物を干し終え、慌ただしく車に乗り込んで学校に向かう車内、次男が私に言ったのが、忘れずにいたかった言葉でした。

 

「ねえお母ちゃん、何かして欲しいって頼む時にかわりにお母ちゃんの何かを手伝うよって言うってことは『ぼくがお母ちゃんの増える負担に気づいてるよ』っていうメッセージになるのかな?」

 

ハンドルを握る手が少し震えました。

自分が伝えたかった以上のことを彼が自分でつかんだなと思うと、じわじわとこみ上げてくるものがあったのです。

 

「次男くんはこれまで、通級の先生と練習したりして、困った時に誰かにお願いする、ができるようになったよね」

と言うと、そうだね、と頷く次男。

「これからはもうちょっと難しい、その、誰かにお願いする時にその人の負担が増えることについても、今日みたいに思いがはせられるようになるとすごくいいと思う」

 

学校の手前で次男を降ろし、少し停車して見送りました。

通学路の見守りをしてくださっているボランティアさんたちに丁寧に挨拶をしながら学校に向かっていく次男の姿がありました。

おでんと私

外に出て寒さを感じるくらいの季節になると、あぁおでんの季節だな、と思います。

 

我が家では秋口から暖かくなるまでの間、最低でも月に一度はおでんを仕込みます。

 

といっても所詮私が作るのです、下ごしらえなど丁寧で高尚なことはできません。

 

我が家の、たしか25リットルくらいの寸胴鍋の3分の2くらいまで注いだ出汁に買ってきた練り物やら豚スペアリブやら、ゆで卵やら大根やら里芋やらをザクザクと投げ込んでただただ火を入れる、それだけ。

 

出汁を取ることもあるけどめんどうなら市販の白だしだのだしの素だののお世話になることもしょっちゅう。

 

アクを取るくらいしかしないでただ煮続けるだけなのに、練り物をいれてるとしばらくしたらちゃんとおでんの味になっている不思議。

 

叩き込んだだけなのに、少し煮たスープを味見するとそこにおでんがあるのです。

 

おでんは幸せを運んできます。

 

おでんが台所で煮込まれている、ただそれだけのことでとても幸せになるのです。

 

家のなかにおでんの匂いがする幸せ。

仕事中も「晩ごはんがもう仕込まれている」という幸せ。

夜も「明日の朝もおでんが食べられる」という幸せ。

 

夫や子供たちにもその幸せは伝播します。

 

小腹がすいたらおでんを温めて食べる幸せ。

学校から帰ったらおでんの匂いがする幸せ。

 

そして、毎日少しずつ新しい具を足してはおでんを食べ続ける幸せ。

 

今日はゆず胡椒、明日は辛子、薬味を変えて楽しむ幸せ。

 

おでんは、私たちに気持ちの余裕と幸せをくれる。

晩ごはんを仕込んでいるようでその実、私は「おでんがそこにある時間」を仕込んでいるのかもしれない。

 

おでん、あぁおでん。

 

我が家のコンロに、夏の間しまわれていたあの大きなお鍋が久しぶりにおでましです。

晩ごはんの後片付けをしながら買ってきたあれやこれやを投げ込みました。

 

というわけで明日の晩ごはんはおでんですろ、うふふ。

それでも私がゲーム(を含むあれこれ)を買い与える理由

こんにちは、今日はいいお天気。

昨日は子どもら(+オット)が楽しみにしてたスプラトゥーン甲子園九州大会にお出かけ。

今朝は会場の楽しさがまだ抜け切らない、そんな朝を迎えました。

 

スプラトゥーン甲子園」という不思議な空間

アクロス福岡の地下2階、入り口のガラス戸の外と中の雰囲気の違いが面白い。

これは去年の会場だったマリノアシティでも感じたこと。

 

ゲーム音楽があちこちでガンガンなる中で、コスプレをした大人や子どもたちが行き交う。

ステージ上で延々と続く対戦、スクリーンに映るゲーム画面をみんなで眺め、歓声をあげる。

ステージから離れたところではswitch本体(みんなスプラ限定バージョンなのがまた一興)を持ち寄って車座になってゲームする一段あり、オフ会的な集団もあり、有名プレーヤーを追いかける人たちあり。

 

プロ野球のスタジアムにもちょっと似てる、不思議な非日常感がとても好きです。

 

球場とはちょっと違うアンダーグラウンド感がじわっと流れているのは、そこで共有されているのが「ゲーム」というカテゴリーのものだからでしょうか。

 

家庭の中での、ゲームのあり方

先日、子供のゲームに関して「制限をかけられているおうちのお子さんが毎週やってきてうちの子のswitchに興じている」「他の子が違う遊びを始めてもやめない」というツイートが流れてきて、あぁそういうの息子らの周りでもあったな〜〜と思い出したりしていました。

 

親が禁止するとより固執しかねない、というのは長男が最初にDSを欲しがった時になんとなく考えたことでした。その懸念もあって我が家では子供たちが欲しがったゲーム関連のものについては【資金繰りが可能な限り(ここがいちばんのネックですが!)】買ってあげることが多いです。

 

ゲームに関しても他の趣味に関しても子供たちとの約束はひとつ。

【生活の中ですべきことに支障がないようにすること】

ここさえ守ってればよっぽどのことがない限りは私がうるさくは言わない、というのが子供たちと交わしている約束です。

 

と言っても、まぁしょっちゅう次男と三男が共有の端末を取り合って喧嘩してたりして雷を落とすことになったりするんですが。

 

子供が興味を持ったものを、どうするか。

4人の子供たちと暮らすなか、それぞれがいろんな興味を持っては私に打診してきます。

新しいゲームソフトを買ってくれ、もしょっちゅうあるし、漫画を描きたいから道具が欲しい、釣りに行きたい、大きい折り紙を買ってくれ、とか、毎日のように飛び出してくる要求はびっくり箱みたいに面白い。(そして家計を圧迫する…!)

 

先日は博物館のイベントで蝶を捕まえた小2の三男が「標本にしたい!」と言い出したんですね。

標本の作業そのものにはものすごく抵抗がありましたが、でもその興味を否定したくなかったので道具を借りて一緒に標本にすることに。

 

初めてやってみたその先には、自分でも驚くような新しい、すごく興味深い世界(沼とも言う…)が広がっていました。

(このことを話し始めるとすごく長くなるのでまたの機会に)

 

初めての標本を嬉しそうに夏休みの宿題として学校へ持っていった三男。

そこから、虫への興味がまた深まったようで学校から帰るとランドセルを放り投げて虫捕り網を担ぎ、足早にいなくなる日々が続いています。

 

それならいいけど、ゲームは…って思っちゃうやつ。

これが虫捕りだから容認できるけどゲームは…というのもよく見聞きするお話で。

うちの子流~発達障害と生きるのなないおさんちの息子くんのように興味を持ったのが数学だったらとか、プログラミングだったら!科学だったら!どんどん投資してあげるのに!とかね、親が「これなら」って思うものに興味を持ったら応援してあげたい、っていうのもわからんでもない。

 

うちの子たちもそんな風に、突き詰めたら「すごい!」って言われやすいものに興味を持ってくれたらなぁと私も思ったことあるんだけれど、まぁそんな風に思うようにうまくはいかんですねえ。

 

そして興味を持ったからってそれが「突き詰めていって何かを成し遂げるような大きな成長を見せる」なんてすごいものではないことだってザラだと思う。

虫に興味がある三男だけど、別にそこから虫図鑑を毎日眺めるわけでもなく夕方になれば網をほっぽり出してタブレットYoutubeの動画見てたりするわけで。

 

漫画でも「どうせ読むならなるべく勉強につながるものを」とか思わなくもないんだけど、まぁそううまくいかない。

 

伸びたら!と思って投資したところでそれが思うような形で回収できないことなんてしょっちゅう。

スプラトゥーンだって子供らは楽しくやってるけど別に大会に出て活躍できるようなガチキッズはうちにはいませんしねえ。

 

 

それでも私がゲーム(を含むあれこれ)を買い与える理由

でも、だとしても、持った興味そのものを否定せずにいてあげたいなぁ、と思ってしまうんですよねえ。

それはゲームでも動画見るのでも同じことで。

 

それは、自分がすごく興味を持ったことについて親や周囲の大人に「そんなもの」って見られるの、言われるの、自分だったらすごく悲しいと思うから。

 

子供たちの生活を脅かす可能性があるとしたらそれは、時間をとてもたくさん食ってしまってすべきことの時間が奪われてしまうことかな、と思うのですね。

なので、そこはやかましく言うし、子供たちそれぞれに苦手な部分についてのメンテナンスは必要。

 

飽きちゃうかもしれないし、やらない時期もあるかもしれないけど、興味あるものは(資金がなんとかなる範囲内で)なんとかしてやりたいと思う。

 

「そんなもの」が詰まった自分

大人にとって価値があるかないか、で与えられるものが決まってしまったら、多分とてもつまらない。

 

そう思うのは、自分の過去を振り返った時に「大人からしたらつまらないだろうたくさんのもの」を面白がって詰め込んできたからかもしれないとも思うのです。

 

子供に「せっかくなら勉強になるような漫画を」と思っちゃう自分が読んでいた漫画はそれはそれはくだらないものだったし(いまだにオットと「クリナップクリンミセス!」で会話が成り立つような、あの漫画とか大好きでした)、ドラクエに何時間も没頭したりもしてきた。

 

オットは日常的にいろんなゲームで遊んでるし、私もちょっと前に久しぶりにドラクエ11に没頭したの、めちゃめちゃ楽しかった。

 

そんな自分たちの子供が、親が喜ぶような実入りの大きい趣味など簡単に見つけるわけないだろう、ともどっかで思っています。

 

でもねえ、きっとどこかでその「つまらないもの」が自分を豊かにしてくれてるんじゃないかとも思うんですよね。

Twitterで誰かが「ボスケテ」って呟いたら、なんか嬉しいし。

 

ゲームを通して子供らと関わるのも楽しいし、熱中してる様子を見るのも面白い。

絶賛思春期真っ最中の長男も、ゲーム含む興味あることだったら私ともオットとも良く話すんだよなぁ。

子供らが見せてくれるいろんな面白い世界を、いつまでも面白がれる自分でありたいなぁと、思ったりしています。

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

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 来年も甲子園あるかな、あったらいいなぁ。

末っ子三男の生き延びる力の話

最近ちょっとだけ、ちゃんとブログを書きたくなっていますがなかなか毎日書けません。

今日は、昨日面白かった三男の行動記録です。

 

宿題が面倒な三男

インドア派の上3人とは打って変わって外遊び命の彼は、毎日帰って来たら玄関にランドセルを放り投げてサッカーボールやバッドを抱えて公園へ走り去って行きます。

 

彼が入学して初めてその光景を目にした時、あぁ本当にこういう子いるんだ…って思いました。

 

近所の子たちと連れ立って公園で日が暮れるまで目一杯遊んで帰ってくる三男。

ご飯の前に宿題をしろというとものすごくめんどくさそうにグネグネと居間の床の上で転がっていることがよくあります。

 

2年生の宿題なんてお兄ちゃんたちに比べたら量も質も大したことないんだけれど、彼にとっては相当面倒らしく、机の上に宿題の材料をばらまいて、娘から「ほらはやくやりなよ〜〜」とよく促されています。

 

思い出す次男の宿題奮闘記

次男も、宿題が面倒な子でした。

(現在進行形ですが中学生になり私の手間は学校の先生に譲渡しました)

そんな次男になんとか宿題をさせようと、学校の先生や特別支援の先生、親の会の先輩母さんたち、いろんな人たちに相談する毎日。

筆記用具を工夫したり、机や椅子の状態、周りの環境、あーだこーだ色々やってみてはなかなかうまくいかない、を繰り返して消耗しきって私の方が気が狂いそうだった時期もありました。

次男の主治医からは「宿題は本人と先生との間の契約だからお母さんは関与してはダメ」と言われ、担任からは「自宅学習の習慣をつけないことは将来次男くんの首をしめるから家でやらせてください」と言われ、板挟みになって泣いたことも。

 

そんな次男の奮闘記を経て来た私にとって、三男が「宿題めんどくさい」と最初に発した時「え?この子も!?」って動揺したのは事実でした。

 

 

母の懸念と、三男の工夫

「宿題めんどくさい」の後に三男が続けたのは「動画見ながらやっていい?」

え?っと正直思いました。

 

兄ちゃんたちにそんなことやらせたことない…

そもそも見とれて宿題できないんじゃないの??

 

そう思いつつ、次男の奮闘記を経た私の脳裏に浮かんだのは

「結局終わればそれで御の字じゃない…」

 

ぐるぐる考えてた私がいいとも悪いとも言わないうちに、三男は「じゃあやるね〜〜」ってタブレットを机に置いてイヤホンつけて動画を流しながら、鼻歌を歌いつつ宿題をやってました。

結局、いつもよりちょっと時間は延びたけど宿題はちゃんと終わってて。

 

「いやなことするときはこれがいいんよ〜」

そこから、三男はどうやら面倒な宿題が出るたびに「何で紛らわすか」を考えているようです。

おやつを目の前に並べて少しずつ食べながらやったり、次男を隣に座らせてカードゲームをやりながらやったり、テレビを見ながらやったり。

 

先日は5問に1問くらいの割合でアレクサに声をかけていたり(でもやりとりがめんどくさかったらしく結局やめてた)、昨日は、宿題のノート類と一緒に前に買ってもらってた飴玉をどっからか出して来て「いやなことするときはこれがいいんよ」と言って口に入れ、しばらく甘さを堪能したところでぼちぼち宿題にとりかかってました。

 

親としての葛藤と夫の反応

宿題のめんどくささを克服するための三男の工夫の数々。

親として「いやそれはちょっとダメじゃないか」と思うことも結構あります。

勉強とは、学習に臨む姿勢とは、と思うこともしょっちゅう。

 

夫が横から「それはダメだろう」と言うことも、私に「なんであんなの許してるの?」と言って来ることも。

 

でも、三男はこれまでに一度も宿題をせずに学校に行ったことがない。

いやだ、面倒だ、と自覚しているのにその成果はやっぱりすごいことなんだろうと思う。

 

かくあるべき、に囚われてしまいやすい私。

自由な発想で、とにかく目的を達成することだけに的を絞る彼の言動はまるでびっくり箱。

目からウロコが落ちること、教えられることがいっぱいあって、すごく面白い。

発見と同時に、これまでお兄ちゃんたちを育てる中で無自覚に制限をかけて来たことがいっぱいあるんだろうなぁという反省も出て来る。

 

三男の「生き延びる力」

三男を育てていて、彼の、目的にたどり着く力、たどり着くために工夫し、行動に躊躇がない姿勢に日々驚かされていて。

それは、4人兄弟の末っ子ゆえの奔放さもあるだろうし、私たち親の手が程よく行き届いていないことも要因のひとつかもしれない。

 

嫌なことを躊躇なく嫌といい、やらねばならないことを前に「終わればいいんだろう」と手段を選ばない。

 

ストレス源が周りに散りばめられている人生の中で自分を削らずに生きる力、こなしていく力。

それは「生き延びる力」に他ならないんだろうなと思う。

 

彼から湧き出てくる「生き延びる」ための工夫、次はどんなのが出てくるのかな。

 

 

 

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 三男が大好きなのが、昔なつかしキュービィロップ。

 

 

 

 

「今」の話をしよう

ツイッターでここ数日、北海道で電気無しの暖房がどうだ、という話がたくさん流れてきてた。

なんだかよくわからないけれど、今回の震災のときのような規模の停電が冬に起きたらどうだとかいう話から起こってるらしかった。

 

たくさんの反論の方が先に流れてきてた。

「今の北海道の機密性の高い家屋で薪ストーブは使えない」

「薪を今からどうやって賄うのか」

 

現実的に無理だろうよという、相当数の反論の後、さっきやっと、どうやらこれが発端らしいというツイートが流れてきた。

 

内容に関しては、もっともだと思うこともないわけじゃない。

今回のような規模の停電が起きたらどうするんだ、なんとかしないといけないだろうというのは至極最もだと思う。

 

じゃあなんで、これが荒れるんだろう。

 

根本的な要因は「どの時点を見てるか」じゃないだろうか、と思う。

 

過去にできていたことをいくら話しても、現実に即適用なんて出来ない。

気候も変わっているし、住む人も、街の状況も、自然の状態も何もかも違う過去のことをいくら持ち出してもそれが「今」の解決策としては生きてこない。

 

もし本当に北海道で「この冬にもし大規模停電が起こったら」という対策について考えるなら、「今」の北海道で、「今」の日本で、「今ここにいる」住民が取り組める対策する必要がある。

 

「過去」からスタートして「今」に合わせていこうとすると多分失敗しやすいんだろうなぁと思う。


今ここにいる人たちが取り組むことを想定してないと話が噛み合わないのかもしれない。

 

これ、子どもたちの周りや夫婦関係について考える時もよく起こることなんじゃないかな。

 

過去がどうだったとしても、「今」の「目の前」や「足元」をベースにして、「今ここにいる人」が当事者であるのだというところから考えを起こしていかないと詰みやすい。

 

もしなんか、いろいろもがいてるのに、いろいろやってみてるのに、なんかうまくいかないなぁってことがあったら、視点がどこにあるのか一度立ち止まってみるのもいいかもしれない。

 

どうあがいても、自分が現時点で立ってる「今」から全てがスタートしていくわけだから。

夏休みの終わりに思い出した、次男の「ずるい」と言われた宿題のこと。

夏休みが終わりを迎えている声や佳境に入って宿題の悲鳴や、いろんな夏の終わりが聴こえてくるTLを眺めています。

 

いろんな宿題に関するツイートに混じって、時期的なものなのかな、配慮を受ける子供たちに対する周囲の「ずるい」という声についてのツイートも散見されます。

 

それらを見ていて思い出した、次男の宿題のことを書いてみようかと思います。

 

苦手だった「●●新聞」

子どもたちが小学校高学年になると、長期休暇の宿題に必ず「●●新聞を作る」という課題が出ていました。(今年、5年生の娘にも出てました)

B4サイズの紙に新聞らしいケイ線が引いてあり、そこに休みの間にあったことをまとめて新聞に仕上げてくるというもの。

新聞の作り方そのものは学校の授業の中でなんとなくはやっているようで、長男は行事の写真を切り貼りしてなんとか仕上げていたのを覚えています。

その新聞作り、手先が不器用で書字に困難のある次男にとってはものすごく苦手とする宿題の一つでした。ベースになる文章を思い浮かべて別紙に書くことはできるのですが、新聞という限られたスペースの中に写真を配置し文字を美しく書き込む、という作品として仕上げる行為がどうにも難しいのです。

 

やっぱり残った、新聞作り

去年の冬休み、ドリルや漢字など苦手ながらもなんとか片付けていきながらも、やっぱり最後に残ったのは新聞作りでした。

本人が書きたいと言った行事の写真をプリントアウトして渡したところで、用紙と写真を前に悶絶する次男。

先延ばしにしていたものの明日は始業式。

このまま放置したら「宿題が終わってないのに…!」と登校前にパニクるのは目に見えています。

さてどうしようか、と考えていたところで思い浮かんだのが、通級指導教室でパソコン指導受けていたことでした。

 

そうだ、パソコン使おう。

次男の通う通級指導教室には同じように書字の困難がある子が多く、その子たちに書字訓練と並行してパソコン操作を教えてくれていました。

脳から溢れ出る言葉はたくさんあるのにそれを文字として書けない苦しさを少しでも軽減できたら、という先生の思いに後押しされて次男も少しずつキーボード操作が上手になっていたところでした。

せっかく通級でもやってるんだし、その指導情報は次男のクラスの担任の先生にも伝わっているはず。

苦肉の策として次男にはパソコンで文字を入力させ、写真の配置などは私も手伝いながらB4サイズの新聞をなんとか仕上げました。

 

「ずるい、って言われるかもしれない」

やっとできた〜〜!と喜んだ次男は翌朝、少し不安げな表情で言いました。

「パソコン使ってずるい、って言われるかもしれない」

うん、そうだよなぁ…。

送り出す前の短い時間しかなかったので、ひとまず次男には

「君は苦手なことをがんばってろうとしたし、キーボードで入力するのも簡単じゃなかったよね?この文字は手で書いてないけど君が一文字ずつ確かに入力したものだから書いたのと同じだよ。胸をはっていいんだよ」

「もし、パソコンを使うことを羨ましいと思う子がいたら、それをお家の人や先生に話してその子もそれをやっていいと思うし、それが叶わないならうちに連れておいで、君にやったのと同じように、母ちゃんが材料も全部用意して同じように教えてあげる、クラス全員きても対応できる、君だけの特別扱いじゃない、母ちゃんは嘘をつかない、大丈夫だ」

と話して送り出しました。

 

やっぱり言われた「ずるい」

事前の確認や通級での指導のこともあり、次男の新聞は担任にはスムーズに受け入れてもらったようでした。

でもやっぱり「ずるいって言われた」と帰宅した次男。

あ〜やっぱりそうか…、と思いつつ、そのことについて次男と話しました。

「私たちは手で書いているのに次男くんは楽してずるい!」という声が一番多かったようでした。

次男が「じゃあうちにおいでよ」と言うと「そういうことじゃない!」と言われたと…

うん…そうだよね…そう言うことじゃないんだよね…

浅はかだったなぁと反省しつつ、次男とそのことについて話す時間を作りました。

 

「そういうことじゃない」ならなんだろう…

なんで次男をずるいと思ったか、それはやっぱり「自分は頑張ったのに楽して課題をクリアしたように見えた」からなんだろうなと思うんですね。

そして「次男の頑張り」の部分は彼らには見えない、当たり前だけれど。

次男に「ずるい」と言った子たちは字もきれいに書ける子たちで、参観日に廊下に貼り出された彼ら彼女らの新聞はとても上手に書けていました。

でも、それを「上手に書けたね、すごいね」とは多分言ってもらえない、高学年ならできて当たり前のことだから。

 

そのできて当たり前のことが人並みにできない時点で次男はもう彼らと同じスタートラインにすら立っていないのだけれど、でもその認識をしてもらうことはなかなかに難しい、次男の気持ちも考えるとそれをどこまで押し出して良いのか親としての私もわからない。

 

次男と色々話す中で、君は君で頑張った、ずるいって言った子たちもそれぞれに頑張って宿題を仕上げてきてた、どっちも頑張ってやってきたことだからそれをお互いに認め合えたら良いのにねえという、結論の出ないぼんやりした話をして終わった記憶があります。

 

思い出しながら、思うこと。

今年中学生になった次男の宿題管理は私の手を離れ、担任の先生や部活の先生がちょこちょことチェックをしてくれているようです。

多分穴だらけなんだろうと思うけれど、本人や学校からのヘルプがない限り私は手も口も出さないようにはしています。

 

次男に「ずるい」と言った子たちのことをいまもときどき思い出します。

そして思い出しながら、次男のようなサポートを必要としないで宿題をやっている長男や娘のことを思うのです。

彼らが「めんどくさいめんどくさい」と言いながら自力で宿題をやっていることを、私はあんまり褒めてもなかったよなぁということ。

当然だとどこかで思ってしまってないかということ。

 

夏休みのギリギリ最後に頑張って宿題を終わらせようとしてる彼らをもうちょっと褒めて良いのかもしれない。デザートを豪華にして労っても良いのかもしれない。

そんなちょっとしたことが、次男のような子たちにとって住みやすい世界につながる一歩なのかも知れない、そんなことをふと思ったりしています。

 

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