次男と一緒に考えた、学校に無駄なことはひとつもないんじゃないかな、という話。
1つ書いたら続けていくつか書いちゃう、いつもの私のパターンですね、こんにちは。
今日は昨夜の次男とのお話を。
体育祭の準備が始まったようです
高校生になった次男。
体育会系の部活も盛んな学校なのでおそらく例年ならば体育祭は1年で一番盛り上がる行事なんじゃないかなぁと思います。
しかしこのコロナ禍、今年度は開催はするものの縮小傾向のようではあります。
縮小傾向とはいえ開催が決まった体育祭に向けて、団ごとに係を選出して準備が始まったようです。
次男の話を聞くに、何かしらに絵を描く係を引き受けたらしく、帰宅の遅い日が続くようになりました。
予想はしていた、キャパオーバー
ただでさえキャパの狭い次男さん。
そして小学校の運動会・中学の体育祭と周りの雰囲気にうまく適応できずにパニックを起こしがちだった鬼門の行事でもある体育祭。
担任や支援の先生とも事前に話した上でできる範囲でガード体制は引いていましたが、やっぱり負担は大きいようです。
週末に出ていた宿題を十分に終わらせることができないまま登校した昨日の月曜日、宿題や体育祭準備のタスクが溜まりに溜まってついに限界を超えたんでしょう。
夕方、係の仕事をぶっちぎって帰宅してきてしまいました。
「こんなことして何になるの…!」
パンクしていた次男の話を聞いていきます。
課題がいくつかごちゃごちゃになっているのでかなり整理する必要がありましたが、その中で彼から出た言葉の一つが
「体育祭の準備なんて無駄なことをやらされている!こんなことして何になるの!」
でした。
「君は無駄なことを無理やりやらされていると思ってるんだね?」
と問いかけるとうなづく次男。
どんなことをやるのかと尋ねたら、どうやら係は団の3年から1年が一緒に活動するものらしく、1年の自分は「奴隷のように(本人談)」言いつけられた雑用をやらされるだけで活動の意義を感じない、無意味だ、と主張していました。
なるほど、彼が状況を理解できないまま指示が飛んできているんだろうなぁという情景が浮かびます。
本当に無駄と言い切っていいんだろうか
「3年生がどんどん作業をやるんだよ、僕たちはいなくてもいい、無駄だよ」
と言う次男に
「その3年生は、何でどんどん作業できるんだろう、先生が来て教えてくれたの?」
と尋ねると首を振ります。
「先生は教えない、やったことのある2年や3年がこうしようって話して進めてる」
「じゃあ、君は来年「やったことのある2年」になれるってことだね」
と話すとキョトンとする次男。
雑用をやらされている、と君は言ったけれど、その間に先輩たちがどんな作業をやっているか見ているよね?その経験のある君は来年、「経験者」としてその場にいられるということじゃないのかな。
なるほど!というキラキラした目になる次男くん。
彼のこういう素直なところは本当に神様のギフトだなぁとよく思います。
「そうか、気がつかなかったけど先輩のやってるのを見てたら確かに来年は動けるよね」
本当は学ぶ機会を与えられていたんだけれど、先生じゃない先輩方は彼にそれを十分に伝えることは難しかっただろうし、次男もそれをするっと理解して学びに活かせるほどの余裕はなかった。
でも無駄じゃないよきっと、という話をして終わりました。
学校で無駄なことはひとつもないんじゃないかな
次男に「君が学校で経験すること、少なくとも今の高校では君の将来に向けて無駄なことなんかひとつもないんじゃないかなぁと思う」と話しました。
「嫌な思いをすることも?」と次男。
そうだね、確かに酷いいじめのような、忘れられなくて苦しむような経験はしてほしくない。もしそういう方向に行きそうなことがあったら早めに教えて欲しいし、そうやって逃げる経験もまた自分の糧にはなるとは思う。
「からかって笑われることは?」「笑われる前に君がとった行動は?」
揶揄されることや小馬鹿にされることは当然良い経験ではないし、できるなら無い方がいいと思う。揶揄う人のことを肯定はできない。
でも人間関係において学ぶべきことの多い次男は最近「〜君が変な顔をした、ということはこれは言わない方が良かったことだったんだと思う」と振り返ることが増えてきました。
彼にとって教室の同級生たちや先輩たちの反応は、自分では気づかないことを教えてもらうヒントにもなっているように感じることもある。
そういう意味では、そこから君が学べることはゼロではないんじゃないかなとは思う。もちろん辛い思いをしてまで通って欲しいとは思っていないけれど、と話をしました。
おわりに
「学校で無駄なことなんかないと思うよ」
とわざわざ言葉にすると誰かのトリガーになって「自分のあの辛く苦しい経験もか!」と憤らせてしまうかもしれません。
私自身も高校でひどいいじめにあった(と自分では記憶している)ことで屋上から飛び降りようかと思い詰めたこともある。あんな経験を我が子にして欲しいとは思わないし、あれを自分にとって必要な経験だったとも思いたくもない。
でも、育児の中であの時に感じたこと、あの経験を通して自分を振り返ったこと(あんなに空気読めない発言ぶん回してたらそりゃ浮くよなぁ、とか)とそこから掘り下げて考えを巡らせたことがその後の自分の糧になってないとは言い切れない、というか役立ってる面はかなりある。
時間が経ったから自分の中で昇華できた面も強いと思うし、もっと辛かったら立ち直れなかった可能性だってあるから、誰でも経験すればいいなんてとても言えないのだけれど。
そこまでいくような心の傷を残してしまうような経験は、親としてさせない。
絶対にそこに行き着く前に助け出して、守る。
そこを約束した上で「君たちの学校生活で無駄なことなんかないんだよ」って言える大人でありたいなぁと思うし、そういう環境を用意してあげたいなぁ、と考えたりしています。
おまけ
余談ですが、次男と話していて気づいたことがありました。
コロナ禍で学校行事や地域の行事はここ2年、中止や縮小が続いていますよね。
次男が経験しているような、マニュアルを文字として書き残すわけではない活動もその多くが例年通りには進められない状況になってしまっている。
PTAの保護者の間でも
「入学した時からずっとコロナ禍だから通常の行事がわからない」
「もし来年度、例年通りに戻すと言われてももうその原型がわからない」
という声はあちこちで耳にします。
次男の高校の体育祭も、それぞれの係の仕事はマニュアルが書き残されているわけではなく、経験のある上級生がリーダーシップをとって進める方針のようです。
つまり、コロナ禍以前の「例年通りの体育祭」を知っている3年生は来年度にはもういない。
次男たち残された在校生たちはもし来年「例年通りの体育祭」が開催できる状況になってももう以前のそれをその通りに再現することはできないでしょう。
6年間通う小学校と違って、3年で卒業する中高の方がより顕著に、アフターコロナからの復元が困難になるだろうなぁと思ったりしました。
もちろん今回の中止や縮小をいい方向へ、無駄な活動のカットや効率化、新たな見直しの機会とできるといいなぁとも思っています。
まる2年続いているコロナ禍で、今後、子供たちを取り巻く環境や地域の活動などいろんな「マニュアルを書き残さずに口頭で伝承してきた活動」が変容していくのだろうなぁと感じています。