スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

鎮静の青〜自閉症啓発デーに寄せて

昨年の今日書いたものを読み返しながら

「そうだった、ブルーライトアップあちこちでやりたいなぁって思ってたんだった」

と思い出したりしています。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 

今年も昨年と同様に、大分県内では別府タワーとホルトホール前の100年の樹の2箇所でブルーライトアップが行われるようです。

 

シンボルカラーのブルーは「いやし・希望・平穏」の願いが込められているそうです。

ライトアップそのものはアメリカで始まり、その後日本では神戸からスタートしたと聞いています。

 

青には鎮静効果があるとよく言われます。

パニックになった時に青い色を見て落ち着く当事者の方の話を聞いたこともあります。

そういえば私も、診断のある次男も青を好む傾向があります。

青の中でも濃い、ロイヤルブルーと呼ばれるような強い青を見ると安心するような気がします。

 

特に視覚優位の人が多い自閉スペクトラム、目から入る青い光はパニックになった脳に強い鎮静効果を与えやすいのかもしれません。

 

ブルーのライトアップは、イベントとして盛り上がることで周知や理解に繋げる目的があるのだろう、と思います。

 

でも今日のこの日に、またライトアップされるこの時期に、もうひとつの効果があるんじゃないかな、あってほしいな、と思っています。

 

それは、街にいくつも灯る青い光を見て心を落ち着かせる方がいてくれたらいいなぁ、ということ。

 

喧噪や混雑や非日常が苦手な当事者の方の中には、啓発デーのイベントに参加できない方も多くいらっしゃるのではないかと思います。私も、楽しさが募ってルーティンを崩すかもしれない次男を連れてはるばるライトアップ関連のイベントに参加する勇気は今のところ有りません。

 

でも、遠くからでも、映像からでも、ネットの画像からでも、たくさん溢れる青い光に癒される人が一人でもいたらいいなぁと思う。

 

そして、大規模なライトアップじゃなくてもいいと思うのです。

家の窓辺に青いライトをひとつ置くだけでも、青いものをそっと身につけるだけでも。

 

当事者やその家族だけでなく、知ってるよ、関心を持ってるよ、一緒に生きているよ、っていうメッセージを込めた青が街にたくさん増えたらいいなぁ、と思うのです。

 

そして街に溢れる青で、少しでも心落ち着く当事者がいたらいいなぁ、と願っています。

 

 

私のトラウマと三男のランドセルの、情けなくて愛おしい関係

このブログでも何度か書いたことがあるけど、私はランドセル選びについてトラウマがある。

 

父に連れられていったお店に並ぶランドセルの中で、私が欲しかったのはピカピカ光るクラリーノのランドセル。

 

でも父が私にと選んだのは、お店で一番上等の牛革のランドセル。

 

満足そうな父の横で、本当はクラリーノが欲しかったとあの日の私が言えたのかどうかははっきり覚えていないのだけど、教室でピカピカのランドセルと一緒に並ぶくすんだ赤茶の自分のランドセルがとても悲しかった。

 

私の中でざっくりと傷として残るその記憶があるから、4人の子どもたちのランドセル選びには絶対に自分の意見を入れない、と心に決めていた。

 

売り場やカタログの買ってあげられるものの中で本人がこれと決めたもの。

それぞれに自分の選んだランドセルにワクワクする様子を見て、あの日の小さな自分が成仏できるんじゃないかと思った。

 

うちの子たちが選んだランドセルの色について、父も母もなんだかんだ小言を言っていたけどスルーした。

 

私はあなたたちとは違う。

同じことを子どもにしなかった。

違う親になれた。

 

そう思ってた。

 

 

上3人が選んだのはわりとありふれた色のランドセルだったのだけど、三男が選んだのはとても珍しい色だった。

 

同じ市内でも滅多に見ないもの。

カタログで本人が見て「これ!」と譲らなかった。

オンラインで細かいパーツまで選ぶことができるプランのもの。

 

本体の色、側面やパイピングの色、金具の色や形まで、PCの前に一緒に座って一つずつ三男が全部決めた。

 

「ぼくだけのランドセル」

6歳の彼は誇らしげに、とても嬉しそうにそう言った。

 

うちの子のために買う最後のランドセル。

それがこんな風に形になっていく、よかった、本当によかったと思った。

 

 

 

こないだ。

もうすぐ3年生になる三男とおやつを食べていた時にポツンと言った。

 

「ぼくはさぁ、なんであの色のランドセルにしたんだろう」

 

ランドセルの色そのものが嫌いになったわけじゃない。

今も彼はその色が大好きだから。

 

「6年生まであのランドセルを持つわけじゃない?6年生の時にどうかな〜って思ってさ〜」

 

あぁ、なるほど。

6歳の頃の彼にはランドセルを選ぶ基準は好きかどうかしかなかった。

でも今の彼には、6年生までランドセルを使うという見通しが立つ。

だから、あの日の自分の選択について後悔のようなものがそこにあるんだなぁと。

 

「黒とかさぁ…ぶなんな色にしとけばよかったんだよー」

とぼやく8歳の彼に、聞いてみた。

 

「もし君がお父さんになって、子どもにランドセルを買ってあげる時、君と同じ色のランドセルを選んだらどうする?」

 

ニヤニヤ笑いながら

「6年生まで使うんだよ?もうちょっと考えてみたら?って言う」

と答えた三男と、ふたりでニヤニヤ笑う。

 

あの日の私のやったことが正解だったかどうかはわからない。

両親にやられたことを絶対にやらないぞ、というトラウマによる反動からの行動だから、冷静な判断だったかすらわからない。

 

三男がどんな気持ちで我が子のランドセルを買う場に立ち会うんだろう。

 

私は我が子にいつでも最善の選択をさせられる親にはなれなかった。

 

でも二人でニヤニヤ笑いながら、これでいいんだなって思った。

あの時のあれは失敗だったね〜ってニヤニヤ笑える親子にはなれたから。

 

あの日、くすんだ赤いランドセルを背負った小さな私は今も私の中にいる。

珍しい色のランドセルを背負う三男をぎゅうっとハグしたとき、小さな私が腕の中でクスッと笑ったような気がした。

 

 

 

学校との間のディスコミュニケーションのようなものを掘り下げた話。

1ヶ月ぶりに書いてます。相変わらずです。

 

ちょっと面白いなと思うお話があったので書いておこうかなと思ったのです。

(リアル知人の話なので場面設定等ちょっとフェイク入ってますが本筋は変えてません)

 

舞台は小学校の図書室です。

お友達ママさんとの会話の中で

「先生が『1年生は絵本しか借りられない』と言ったから、それで物足りない子が不満に思わないか心配」

と言うお話が出ました。

 

うちの子たちとは違う、大規模校に通っているお子さんがそう言っていたと。

子どもたちからそういうの聞いた事なかったな〜〜と思って、その後【うちの子・うちの子の学校の司書さん・その学校の司書経験のある知人】の3者に聞き取り調査(というほど大げさなものではありませんが)を行いました。

 

①うちの子の証言

「そんなこと言われたことない」

「一年生でもなんでも借りてたよ」

 

②うちの子の学校の司書さん

「そういう指示はしたことないですね〜」

私「学校の司書さん業界での通例とかでもないですか?」

「うん、ないと思いますよ〜」

 

③その学校の司書経験のある知人

「あ〜それはね、絵本しか読ませないって話ではないよ〜」

私「!!!!!」

 

知人の話をまとめますと、こういうことのようです。

 

小学校に入学すると休み時間に自由に借りたりする前段階で授業の一環で「図書室の利用の仕方」をまず学ぶことになる。

その時に、1時限(40分かな)の枠の中で「説明を受ける・本を選ぶ・貸出カードを書いたりと借りる作業をする・片付けて教室に戻る」までやらないといけない。

 

大規模校となるとうちの子たちの小学校より図書室自体が広く、蔵書も多い。

その図書室内で1年生1クラス30人程度を「自由に選びなさ〜〜〜い」と野放しにするとどうなるか。

 

そこにいる大人は担任と司書の2人程度。

(副担任がいたり司書が複数いる学校だともうちょっと多いこともあるかも)

 

30人の中には、地域の図書館に行き慣れて好みが絞れている子もいれば、本など読んだこともない子もいる。経験値も生まれ持った特性も様々な30人が一斉に図書室内に放たれたら「借りる本を選ぶ」という作業だけでも40分の授業があっという間に終わってしまうような状況になってしまって、「借りる」までたどり着けない。

 

だから、現場にいる先生の判断で

「ここからここまでの棚の中から選んでね」

って、背の低い低学年用の本が並んだところから選ぶように促すようにしてたよ、そういうことなんじゃないかな、と友人。

 

なるほどなるほど。

子どもを通して保護者に伝わっていた

【1年生は絵本しか借りられない】

という決まりごとのようなものは、実は学校という現場の中での色々な背景由来の理由があった上での暫定的な処置だった、ということがわかります。

 

友人によると、担任次第だとは思うけど、借り方のレクチャーがある程度進んでみんなスムーズに借りられるようになったら、その子の程度に合わせて選べる本の幅を広げられるようになったりするんじゃないかな〜とのこと。(「担任次第」というのがポイントではありますが、本題ではないので今日はスルーしときます)

 

似たようなお話は、うちの子たちの間でも良くあるのです。

 

例えば、娘が「シャープペンシルが禁止されてる、お兄ちゃんが5年の時は良かったのに」と言ってきた。確かにそうだなぁと思って担任に事情を聞いてみると、一部落ち着かない子たちがいてシャーペンを解禁すると授業中カチカチ言わせ続けるのでいまは全面的にダメと伝えてます、とのお返事。(これについても色々と異論が出したくなるところではありますが、本題ではないので今日はスルーします)

一見、理不尽なことのようにも見えますが、先生には先生なりの理由があってそうしてるのだなぁというのがお話を掘り下げて聞くとわかります。

 

小学校入学の時に、コップの袋や体操服の袋の紐の長さを細かく指定されたプリントを渡され「手作りしないといけないってことか!」と思わず手作り強要への拒否反応が出そうでしたが先生に詳細を尋ねると

「机の横のフックや体操服かけの高さから、床につかないような長さでお願いしています。掃除の時に引きずって危なかったり、床について不衛生だったりするので」

とここでも現場を知らないとわからない納得の理由が。

 

 

学校や園にに通わせていると子供が言ってきたことに対して大人の感覚として「え、それは先生がおかしなこと言ってるよね?」って思えることはたくさんあって、でもそれぞれを掘り下げて聞き取ってみると「へーなるほどな」ってなることは本当によくある。

 

Twitterでもいろんな「学校のこれ、おかしくない?」が流れてくるんだけど、それをみるたびにこんなエピソードを思い出しては「向こうには向こうの事情もあるかもだなぁ」と思ったりしています。

 

そしてお互いに

「もうちょっと説明したり」

「もうちょっと聞き取ったり」

の余裕があったらすれ違いがちょっと減ったりするのかな〜と思ったりするのです。

 

学校の先生が説明のプリントに

「机の移動の際に安全な長さです」

と書き添えてもらってたら印象は多分随分違う。

 

図書だよりに

「1年生は借りる練習のために選ぶ本をいまは少なめに絞っています」

って説明があったらまた多分ちょっと違うかな(読む読まないはあるだろうけど)

 

んで保護者の側も黙って憤ったり、いきなりクレームを入れるんじゃなくて

「そういう話を小耳に挟んだけど先生なんか事情あるの?」

って聞くステップがあるとなるほどねって話せたりする。

 

まぁ、お互いに余裕と会話ができるだけの人間関係がないと無理じゃない、とかそういう話ではあるんだけども。

タイガー水筒直飲みステンレススポーツボトルのリカバリー能力の高さについて

さっき、フォロワーさんから

「毎年紹介してる水筒、教えてください!」

ってリプレイが届きました。

 

探してて切実に困ってる!というお話のよう。

サクッとAmazonで検索、リンクを貼ってお返事いたしました。

 

ふふふっとおかしかったのは、フォロワーさんから「毎年紹介してる」と認識されていたこと。

うん、多分この方の認識の通り、私は同じ水筒を何度も何度もtwitterで紹介し続けてます。

 

なぜこんなに推しているかといえば、これまで自分が欲しかった水筒の機能をほぼカバーしてくれている商品だから。園児の頃からいくつも買ってきたけど、どれも微妙で納得がいかず。やっとたどり着いたこの水筒は定期的なリニューアルを繰り返しているけれどどの段階でも使用感やメリットが欠けない。タイガーの底力を感じます。

 

何度も紹介している水筒はこれです。

 

Twitterでも何度も書いていますが、この水筒の良いところを改めて。

 

①手を中に突っ込んで洗える

②カバーの底が丈夫で子供が引きずっても破損しない

③保冷力が優れている

④パーツが簡素で洗いやすい

⑤カバーを洗濯機で洗える

⑥ボトルの内側に特殊加工されていて汚れが落ちやすい

⑦容量やデザイン違い、発売時期違いの商品もパーツの互換性がある

⑧全てのパーツを公式パーツショップで購入できる

 

www.tiger.jp公式の製品情報ページも貼っときます。

 

この商品の優秀なところはその使用感だけではないんですね。

今回の本題はそこです。

 

ただ使用するだけのメリット以外の良さ、それがリカバリー能力」です。

この、商品のリカバリー能力、最近私が買い物をするときに意識するようになったことです。

 

このブログでも何度か触れてきましたが、私自身注意欠損の傾向がありますし、子どもの中には発達障害の診断が下りている子もいます。

 

そんな我が家は、水筒に関して

 

①パーツをなくす、壊す

②出し忘れ、置き忘れにより洗うまで長時間放置される

 

という、大きく2つの問題が起こりやすい環境にあります。

(さっきも車の後部座席の下で、おそらく先週末から乗せたままの水筒をひとつ発見しました…)

 

そんな我が家にとって、破損したパーツがどれもオンラインで購入できること、本体やカバーを洗浄しやすいことは大きすぎるほど大きなメリットです。

 

失敗が起こってもそれをリカバリーして元通り使い続けることができるから。

 

洗った時にうっかりゴムパーツをなくしてもオンラインショップですぐ買えるし、互換性が高いので複数ある同じ水筒のパーツを流用もできます。

カバーを汚してもお風呂場でゴシゴシこすってネットに入れて洗濯機に、翌朝には乾いて学校に持っていけます。

車内に置き忘れたりカバンの中で数日経ってしまっても、気づいてから洗うのもすごく楽で、汚れが落ちずに困ったことは今のところありません。(公式サイトにはスポーツドリンクを入れても大丈夫と書かれていますが、スポーツドリンクを入れたまま長期間放置というのは今のところやったことがないので影響はわからないです…)

 

タイガーのこの水筒は、使用の性能が優れていることはもちろんですが、このリカバリーに対する能力がものすごく高いと感じています。この水筒を買うようになってから、それまで水筒の使用に感じていたストレスがほぼゼロになりました。

 

ADHD傾向のある族にとって、失敗したらもう取り返しがつかない、という状況はものすごく辛いことです。

綱渡りの上を歩いているのと同じだし、リスが現れたら綱の上にいることすら忘れてそっちに気を取られて、奈落の底に落ちてしまう。

 

だから、食器を選ぶときも後で同じものが買いやすいものを選びます。

うっかり割ってしまっても同じものを買えばその失敗をすぐに補えるから。

 

こうやって暮らしていたら、買い物をするとき、その商品のリカバリー能力について考える癖がついてきました。

 

もし壊したら、無くしたら、同じものがすぐに手に入るかどうか。

同じものが手に入らなくても、なんらかの方法で穴埋めが即時可能な商品かどうか。

 

注意欠損の傾向がない人にとっては「壊さない・無くさない」が最初だろうと思われるかもしれません。でも、それができないハンディなんですごめんなさい、って思えるようになったのはごく最近のことです。

 

傾向のある我が子にも、もちろん前提として「大事に使うこと、無くさないこと」は伝えますが、どうあがいても頑張ってもやっぱり壊すし無くす。その度に叱られて自尊心が削れていってしまうリスクはとても大きいです。

 

壊したって無くしたって、リカバリーできればそれで御の字。

そんな生き方を母の背中から学んでくれろ息子たちよ、と思うのです。

 

 

 

 

もやし餃子と整理収納から考えた、自分のためのレシピを作るということ

相変わらず定期的に更新できてません、多分今年もこんな風にやってくと思いますがぼちぼちお付き合いください。

 

餃子を作るめんどくささとの戦い

餃子は私の好物です。

市販されたものもそれなりに美味しいのだけれど、どうしても自分が好む味に出会えない。(もしくはあってもとても高いので日常的に食べられない)

自作すると自分の好む味にできるのだけれど、そこには大きなハードルがあります。

 

前にこのブログでも書いたことがあったけれど、調理作業の中の特定の作業がとてもめんどくさいんですね。

餃子だと、あの葉物野菜を細かく刻んで塩で揉んで時間をおいて絞って、という作業が死ぬほどめんどくさい。

やり始めたらそれなりにやるんですが、まぁめんどくさい。

器用ではないので刻んだキャベツがボウルの外にあちこち出てる。

それを片付けるのもめんどくさい。

 

そのめんどくささを考えると、餃子が食べたくてもつい諦めてしまってたんですね。

 

もやし餃子、という啓示

きっかけは我が家の節制だったと思います。

4人の子供といつ食べ盛りが収まるのかわからない体格のいいオット、我が家のエンゲル係数はどんどん上がる一方です。

これはいけないと、食費を絞る方向へシフトしているのが現状です。

その中で、必然的に家計に優しいもやしの出番が増え、冷蔵庫に買い置きのもやしが常にある状態になりました。

 

餃子が食べたい、でもめんどくさい。

確か、何かを見たような気がするんです、テレビか何かで食材の代用としてもやしを使っているレシピをみて、これだ!と思ったんですね。

餃子、もやしで作れるんじゃね?

 

Twitterでも報告しましたが、できました。

レシピをざっくり紹介すると…

①もやしを袋ごと生のままバキバキに折る

②豚ミンチと混ぜる

③味をつける

④包む

⑤焼く

以上です。

 

ものすごく手間を省けた上、意外にもとても美味しくできました。

家族にも好評で我が家ではそれ以降、餃子といえばもやし餃子、が定着しています。

 

もやし餃子ともやしハンバーグ

もやし餃子に続いて、先日もやしハンバーグを作りました。

ハンバーグも餃子と同じく、玉ねぎのみじん切りとそれを炒める作業が死ぬほどめんどくさいのでなんとかそれを省略できないか、という試行錯誤の末に思いつきました。

 

この2つのメニューのレシピをブログに、というリクエストをいただいたので後日整理してアップしようかなぁとは思っています。ただ、後から検索してみたらどちらのメニューも料理研究家の方のものや某レシピ投稿サイトのものもいろいろ出てくるので「私の完全オリジナル」というわけではないと思います。似たようなレシピはあちこちに転がってます、多分。

 

もやし餃子は、万人向け手抜き料理なのか

ツイートした私の手抜き料理に関して、喜んでくれる方がいくらかいらっしゃいました。同じようにみじん切りが苦手だとかハードルが高くて敬遠してたという方もおられました。

ちょっと、役に立てたみたいで嬉しかったので、調子に乗ってレシピを増やそうか、と思ったんですが、はてちょっと待て、と考えたんですね。

「手抜き料理」とか「簡単料理」という種類の、手間を省くことを目的にしたレシピはたくさん世に出てます。それこそ某レシピ投稿サイトには山のように。

 

でも、私が考えたもやし餃子は、そういう「万人に向けた手抜き料理」として成り立つのか、と考えた時、猛烈な違和感があったんですね。

 

違う、違うぞ。

 

「餃子を作る上で私が嫌だったハードルを超えるための試行錯誤」だったからこそ意味がある。

 

そう思ったんです。

 

万人向けの手抜き法ではなく、私のための自分を楽にする方法、それが餃子にもやしを使うことだったわけです。

 

あ、似てる。

そうかそうか、そうだったのか、と思っていたときに、ピコーン、と繋がりました。

整理収納を考えるのと同じだなぁって。

 

もやし餃子と、整理収納

このブログでも書いたことがあるような気がするのですが、家の中の整理整頓を考える時に雑誌に書いてある方法をそのまま試してもうまくいかないことが結構あります。

 

これ、一人ひとりにそれぞれ行動の癖があるからなんですよね。

雑誌通りの工夫をしていても、自分の行動の癖とそのしまい方が合ってなかったらしっくりこずにやっぱり家は散らかってしまう。

鍵のしまい方ひとつとっても、決めた置き場所と家に帰ってつい置いてしまう場所にズレがあったらうまくいきません。無理に合わせるとストレスがかかってしまったりも。

 

だから、収納の雛形ありき、ではなくて、行動のスタイルをまず見つめ直して「どこにおくとスムーズか」を考え、試し、それぞれのものの置き場所を決めていく。

 

この方法を取り始めてから、我が家で物が無くなることが格段に減りました。

 

もやし餃子もそれと同じだったんですね。

 

ただ単にコストカットや手軽さが目的で考え出されたわけではなく

「私がとても苦手で取り組むのが難しかったハードルを下げる」

という、私のためのオーダーメイドみたいなレシピだったから、私にとって特別なものに感じられていたんだろうと思います。

 

おわりに

整理収納をオーダーメイドに考えるプロがいるように、生きる上でのこのめんどくささをどうしよう、っていうのを考えるのも面白いなぁ、と改めて感じています。

どうやら私はそういうのを考えるのは割と得意な方のようです。

自分のハードルを考え考えどこを工夫すれば楽になるかを考えるのは苦しくもあり、でも楽しくもある。

 

こんな風に、誰かのハードルを一緒に考えていくようなお手伝いをするのも悪くないかもなぁ…と思ったりしています。

「この料理のここが猛烈にめんどくさくて手が出せない」というお悩みがある方がいらしたら、よかったら一緒に考えてみませんか。 

「パパの睡眠時間を削れ」というお話から考えた、夫婦間の問題解決についてのお話

直接のリンクは貼りませんが、ツイッターでとあるパパさんのブログ記事が流れてきました。

 

内容をざっくり要約すると、ママの睡眠不足をなんとかしたいという思いから書かれているのかな、「俺は明日仕事だから」と育児を肩代わりせずに自分の睡眠を優先する父親がいるらしい、というお話から、人の命を預かる医者でも子育てに立ち向かっている人がいる中で「たかが14時間勤務くらいの普通のブラック企業勤めの旦那さん、しかも営業だの開発だの、別段人が目の前で死ぬわけでもない仕事」の方に向けて、「そんな仕事で『俺は明日仕事だから』とか言ってる場合じゃない」と書かれていました。

 

ママの睡眠不足は緊急事態なんだから仕事だからとか言ってる場合じゃない!

パパが睡眠時間を削ってでもフォローしないと!

 

そういう主張をなさっている方なんだろうな、とは思いましたし、それそのものは間違っているとは言い難い内容だとは思います。

事実私も、うちの子たちの乳幼児期に睡眠不足で辛かった頃、隣でスヤスヤと眠る夫にほのかな殺意を覚えたことがありますし、それをブログにしたためたこともございました。

 

いや、もう4年も前のことでしたか。

当時の夫は現場関係のお仕事をしていたので暑い日も寒い日もずっと外仕事、ぐったり疲れて帰ってきていたので「私の代わりに睡眠を削れ」とはとても言えない状況でした。

 

この時の私は、寝ている夫に対する苛立ちを某高級アイスを買うことで紛らわしていました。解決策がそれしかなかったのか、といえばそうではなかったなと今では思うのです。

 

もっと実家を頼ってもよかったし、ファミサポを頼んでもよかったし、家事代行をお願いしたってよかった。

本当にしんどかった時には友人に白旗をあげることもできたかもしれない。(私が今、育児中の友人から「寝たいから子守にきて!」と言われたら飛んでいきます)

 

でも当時の私にはそんなこと思いつきませんでした。

育児は夫婦でなんとかしなきゃいけない、と思っていたし、外に何かを頼むハードルがすごく高かった。結果、自分で抱え込むことになってしまっていました。

 

 

私の話はこのくらいにして、本題であるブログに戻りましょう。

 

これ、どうも炎上しているっぽいのかなんどもTLに流れてきます。

なぜこんなに紛糾するのか。

それは、きっと問題がごっちゃになっててあちこちに刺さっているからだと思います。

 

「お父さん」という立場の方がどんなお仕事をしているか、それは家庭の数だけ違いがあります。でもそれを無理やり一括りにしちゃってますよね。

そして「お母さん」という立場の方のしんどさがどの程度かも、個々に違う。

 

家族の数だけ多様さがある問題を、総論として語ろうとするから無理があるんです。

 

この落とし穴は、こと育児に関する議論の中でよく起こりがちだなと思います。

過去に、こんな記事を書いたこともありました。

 

3年前の記事ですが、これも、小さいうちは父親は早く帰って家にいるべきだ!という意見から出たものだったと思います。

 

どちらの事案も、父親という属性の人が

「朝通勤して会社という建物の中でデスクワークをして夕方から夜にかけて帰宅する」

というプロトタイプを基にして話していると思うんですね。

もちろん、多数派の傾向をモデルにして議論を展開する必要があることもあるとは思います。

 

でも、少なくとも育児に関しては「各家庭でどう対処するか」という小さな枠組みの話としてしか答えは出ないんです。

 

夫婦それぞれの性格、生い立ち、コミュニケーションや援助を求めるスキル、職業や職場環境、住居の状況や生活環境、周囲の環境や福祉の状況、生まれた子供の健康状態、特性…

 

いろんな要素が絡み合っていることで、それを見つめ直さないと答えは出ない。

他の家庭でうまくいった方法が自分の家庭でうまくいくとは限らない。

 

当該のブログ記事に関して、

 

というコメントをツイートしていたら、「夫婦で見るしかない状況でどんな打開策が?」というご質問をいただきました。

 

色々端折って結論から言うと、答えは「そんなことわかりません」になっちゃうんですね。

なぜって、その家庭ごとの事情が全くわからず検討のしようがないから。

 

お父さんの職業や就業環境がわからない状態で「いまの睡眠時間を削ればいい」が本当に正解か、それは誰にもわからないと思うのです。

 

当該のブログではお医者さんという命に関わる職業の方を挙げていらっしゃいますが、車を運転する業務がある方が睡眠不足で事故を起こせば当然命に関わってきますし、現場仕事の方が足場の上で睡魔に襲われても同じです。

 

お父さんの睡眠時間を削るのが可能なのか、は、その家庭を細かに検討しないと答えは出せないんですね。

 

そして、私が一番引っかかるのは、その、答えがわからない現実があるにもかかわらず繰り出される、特定の属性に対する「このくらいならできるだろう(なのにやらない)」という批判です。

 

この程度なら誰だってやれるだろう、という一括りにした物の見方は、「専業主婦なんだからやれるだろう」とか「この程度の家事なら誰でもできるだろう」というお話と根っこは同じではないでしょうか。

 

かくあるべき像を父親に求めることは、これまで女性がされてきて辛かった母親像女性像の押し付けとどう違うんでしょう。

押し付け合い続けることは夫婦双方にとって良い結果を生むでしょうか。

 

ツイートの中で私が話していたのは、個別のお話ではなくて

「削り合うことが正解、という話が本筋になってしまっていいの?」

という大きな枠のお話です。

 

そして、ご質問いただいた

「他の打開策は何が?」

というのは、個別の事案を掘り下げないと見えてこない小さな枠のお話。

 

話のステージが違うんですね。

 

大きな枠組みのお話としては、ファミサポや福祉のサポート、夫婦という小さな枠の中で苦しい状況にある人たちをサポートする仕組みはどんなものが用意できるだろうかという行政の視点、ボランティアとして活動する人たちがいるとしたらどうやって周知を測ろうかとか、発達特性や生い立ちの問題を抱えた夫婦へのサポートとして何ができるか、父親が育児に参加しやすい職場環境の構築のためには…

いろんな角度からの、仕組みづくりや活動のお話ができると思います。

 

問いかけていただいた打開策は何が、ということに関しては、それぞれの家庭の状況を詳しく教えていただければこういう案もあるのでは、というお話はできると思います。(それを私が請け負えるかというとそれはまた別のお話ですね)

 

そして、これはちょっと次元の違うお話になりますが、打開策が欲しいと思っていたけれど実際に必要なのは打開策ではない、という可能性もあります。

(実は、睡眠不足から夫への殺意がわいた私に必要だったことの大部分はこの、打開策ではなく「誰かに聞いてもらう」という経験だったりもしました)

 

育児に関して、思うように動いてくれない配偶者についての苛立ちが募ったときに自分の代わりに相手を罵倒してくれる強い言葉に惹かれてしまうことがあると思うんですね。

でも、それに引きずられて本来大切にしなくてはならないはずの自分の身近な家族を見据えることができなくなってしまわないか、と気になります。

 

ネット上には理想的な父親像を語る方がたくさんいます。

目の前の自分の夫と見比べて、その眩しさが刃物のように刺さることもあるかもしれません。

 

でも、その眩しさで目がくらんで、目の前の家族の正確な輪郭がつかめなくなってしまう。これは、夫婦関係に限らず子供に対しても起こりうるなぁと思っています。

 

理想像があって「そこに当てはまって欲しい」というのは、高じれば上から押し付ける形の抑圧にもなりやすい。

 

「今、ココ」から、

「今、この家族」から、

幸せになるためにどうしていったらいいか、というのは、それとは逆の、下から積み上げていく形の解決方法なのかな、と思います。

 

積み上げるためには、前述したような細かな、それぞれの背景に目を向けなくてはいけません。大変なことだし、労力もいります。一人でできないことだってあると思います。

質問箱やツイッターを通して私もささやかながらお手伝いをさせていただくこともありますが、まずはそんな場で、抱えているものを吐き出しながら整理するところからかな、と思っています。

 

思うように動いてくれない夫のことを罵ってくれる強い言葉に惹かれたら、それは一つのサインかも知れません。吐き出す必要があることを溜め込んでいること、整理したい感情があるかも知れないこと。

そしてもし私のことを思い出してくれたら、お返事が遅いかも知れませんがよかったら声をかけてくださいね。

 

 

ダラダラと長くなってしまいましたが、恐らくは今年最後になるでしょうブログ記事をそろそろ締めましょう。

 

今年も、とても不定期で思いつきに発信されるブログにお付き合いくださいましてありがとうございました。

 

この一年、こんぺいとサロンの開催や質問箱での人生相談めいたやりとりなど、これまでのイシゲスズコとしてのソーシャルメディアの使い方が大きく変わってきた年になってような気がしています。ブログによる発信頻度もそれに伴って変化している気がしますが、来年もほそぼそと続けていこうと思っていますのでよろしくお付き合いくださいませね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コウノトリの報道から考えた、子どもたちの周りの環境のこと。

相変わらずブログらしい更新ができずにいます。

師走です。お坊さんだか先生だかが走るほど忙しいらしい師走です。

例に漏れず私も仕事のことや引き受けている役員関係、子供の行事…なんやかんやタスクが積み上がっていって忙しくしています。

 

そんな中ですが、twitterのTLに流れてきたこんなニュースからちょっと色々考えたので、書いておこうと思います。

 

www.nishinippon.co.jp

西日本新聞の、コウノトリの飛来に関する記事です。

国の特別天然記念物に指定されているコウノトリですが、農薬の使用などで安全な住処が確保できなくなった国内では絶滅してしまっています。

記事の中では海外から譲り受けて種の保存に取り組む活動などが紹介されています。

 

コウノトリの「環境」

記事の中では、コウノトリの好む環境についてこう書かれています。

ドジョウやカエル、昆虫などを食べるため田んぼや湿地帯に降り立つ傾向があるといい、公園がある豊岡市は市を挙げて無農薬や減農薬の水田普及に取り組む。 

 

「ドジョウやカエルや昆虫が生息する田んぼや湿地帯」があればコウノトリが来るのでは、という解釈ができます。

それを用意すればコウノトリの好む環境が保持できる、とも考えられます。

 

「じゃあ用意しよう」なのかどうか。

ここで、フォローさせていただいている魚の専門家さんが言及されていたことを取り上げます

 

この、何かのために別の種を持ち込む、というのは長い歴史の中、世界中の至る所で行われてきたことだと思います。

そして、その結果国内の固有種が絶滅の危機に瀕するケースも多い。

 

持ち込まれた外来種の中には、食糧不足を補うためであったり、人間に害のある生き物の駆除のためであったり、理由は様々ではありますがその時ごとに(それなりの)有用性があって行われてきたことだろうと思います。

 

でもその結果、持ち込まれた種による被害と言える現象が起こってしまう。

 

なぜ?

 

それは「それなりの有用性」という、点だけを見て行われてきたからだろうと思います。

 

たくさんの先生たちとの出会いの中で見えてきた、環境の連鎖

子どもたちと一緒に博物館主催のいろいろなイベントに参加したりしている中で、これまで好きだった鳥だけでなく、魚や虫や葉っぱや苔など、いろんなものに詳しいそれぞれの先生たちに出会うことができました。

 

先生たちと一緒に山に入ると、面白い発見がたくさんあります。

鳥の先生が、声が聴こえる鳥の話をします。その鳥が好む木の実を挙げると、植物の先生がその実のなる木を探して、お話をしてくれる。

 

先生たちのお話を聞いていると、これまで知識として知っていただけの「食物連鎖」という概念が、今ここで成り立っているんだということに気づかされます。

食物連鎖というと食べるものだけの話のようですが、実際にはその食べ物が育まれる環境まで全てを含みます。

 

柿の実を好む鳥がいたとして、その鳥が生きるためにはただそこの柿の木が植わっていれば良いわけではないんですね。

柿の木が毎年人の力を借りずに実をつけるためには何が必要か、それぞれの要件を満たすためにはそれぞれどんな背景が必要になるか、という、維持するための環境の連鎖が必要になってきます。

 

コウノトリの話に戻ると、五島に毎年コウノトリがやって来る環境を保持する、というのがどういうことなのだろうか、ということです。

 

人間が餌となるドジョウを毎年放流するのが正解でしょうか。

おそらくはそれは、自然の中での正しいあり方ではないのだろうと思うのです。

餌となるドジョウがコウノトリの餌になりながらも数を保つことができるのはどんな環境か、その環境を保持するためにはその背景にどんな要因が…

という、何重にも重なった色々な条件が背景にあって、やっと「自然にコウノトリが居着く環境」が出来上がるのだろうと思います。

 

そしてそれら環境を守っていくためには、鳥の知識だけ、魚の知識だけ、葉っぱの知識だけ、という、特定のことだけを見ていてもダメなんだろうと思うのです。

色々な分野の有識者が連携を取り、様々なことを想定しながらベターを模索していく、その取り組みに尽力して初めて、人間という立場から自然にアクセスできるんじゃないか、と思いました。

 

直接どうにかするのではなくて、環境がそうなっていくような流れのために自分にできることを考える。

 

コウノトリの生存のためにやれることは「住み良い環境を人間が作る」のではなくて「住み良い環境が維持できるような連鎖が起こるよう人間が意識する」ということなのかなと。

 

ここまで考えたところで、はて、これは何か似ているぞ、と思いました。

子どもたちを取り巻く環境です。

 

子どもたちの周りの、環境の連鎖

家庭で学校で、子どもたちがいわゆる「問題行動」を起こしたり、何か困ったことが起こったりすることがあります。

その時に周囲の大人がつい「〜〜だから」と飛びつきやすい原因を掲げて、そこを潰そうとすることがあります。

よくあるのが「親の関わりが足りないから」「愛情不足だから」とか最近だと「発達障害だから」とか。

そうやって「原因」を潰せば解決するだろう、という対処をしようとする。

 

でもそうやって小手先で対処したのにうまくいかず、泥沼にはまっていくケースを何度も見てきました。

 

コウノトリの話を考えながら、この、子どもたちを取り巻く環境の話にも繋がるなぁと思ったのです。

 

何かの問題が起こっている、対処が必要な事態が起こっている。

その時に、特定の部分だけを眺めて「ここをこうすれば良いだろう」という解決策を立てていいんだろうかと思うのです。

 

コウノトリのために餌をまく、これが、大人がついやってしまう小手先の対処だと思うのです。

 

でもコウノトリに本当に必要なのは、餌となる生き物が自然に繁殖し数を保てる環境であり、その環境を保つための気候やその生き物の餌が数を保てる環境であり…と続いていく。

 

子どもたちにとってはどうだろう、と考えます。

彼らにとって本当に必要なのは「想定される原因を潰す」という小手先の対処ではなく、子どもたちが問題となる行動を取らずに済むような、もっと大きな視点の、もっと色々な専門的な知識を持った人たちの連携が必要な対処なのではないかなぁと思うのです。

 

おわりに

すごく漠然とした話なので、本当はもうちょっと具体的な事案について掘り下げて言語化したいところではあります。

がなにぶんお仕事多忙ゆえ、今回はこの辺までで。

また継続して何か書くことが、もしかしたらあるかも。

ツイキャスのネタにするかも。

まぁ、そんな感じで投げて、今日はおわりです。

 

 

 

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