スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「困っている」のです、当事者は。

「日本死ね」ブログの余波はまだ私のTLでも続いていて、色んな方の声がたくさん流れててきています。数日前からは声を上げた方が揃って使っている抱っこ紐「エルゴ」に焦点を当てたツイートに対する意見が増えてきました。

 

私が最初の息子のときに抱っこ紐を用意しようかと思っていたときにはまだエルゴはあまりメジャーではなかった記憶があります。三男を産んだ5年前には雑誌にもよく載っていたような。買うかどうか迷ったけど、上3人の抱っこに使ったものがまだ現役で使えたのでそのまま継続しました。ネットや雑誌で評判をたびたび見聞きして途中からだけど買っちゃおうかなってかなり悩んだほど、抱っこをせがむタイプの子を持つ親にとっては抱っこ紐の性能は命綱みたいなものだしなぁとやりとりを眺めながら、買い物に出たときに抱っこ紐を自宅に置き忘れたのに気づいて「このままじゃお店の中回れない!」って慌てて取りに帰ったことを思い出したりしていました。

 

いちゃもんをつけたい人、現実から目を反らしたい人というのは確実に存在していて、なにかにつけて文句を言いたいものかもしれません。

今回の保育園問題についてもいろんな外野からの意見が噴出しているのを見ては、その人たちが抱えているものがつい気になってしまうのは私の性(さが)なのかもしれないなぁ。

 

その人たちが何を抱え何がトリガーとなって反論やたたき行為に手を染めているのかは分かりません。何かしらの理念があって仰っていることもあるでしょうし、無知のままただ反発したいという方もいらっしゃるでしょう。

 

でも「エルゴ使ってるなんてほんとに困ってるわけじゃないんだろう」という意見に思うのです。「困ってるか」を決めるのは、あなたではないのよ、ということ。

 

声を上げている当事者は「困っている」のです。

周囲から、外野から、どう見えているのかは論点ではないのです。現状で、自分の問題として「困っている」それは事実。それが事実である、あの人たちは「困っている」し、声を上げている氷山の一角である彼ら彼女ら、その水面下には数倍数十倍数百倍の、「困っているけど声を上げられない」人が存在しているのだと私は思います。

 

 

チャビ母さんのこのツイートを見て、私が思ったこと。それはどんな障害であっても、どんな困難であっても、その人が「困っている」という現実が大事なのではないか、ということ。

 

 

ハンディのある子たちの支援を考えるときに周囲が陥りがちなこととして、その子が「どんな障害を持っているか」に注目してしまうことがあります。それは当然意識はする必要はあることなのだけど、実は一番大事なことじゃない。

 

子どもたちへの支援を考えるときに一番大事なこと、それは「どんな障害か」ではなく「どう困っているか」。彼らがどんな風に困っているか、どんな困難を感じているか、本人が、保護者が、支援者が、本人の持つハンディに起因したどんな困難を感じているのか、そこに支援の糸口がある、そこを見据えていない支援は無駄なのかもしれないとすら思います。

 

本人にとって必要な「どう困っているのか」という視点から支援を行うこと、それを実行に移すためには「困っている」のだという現実から目を反らさないことが必要不可欠になります。

 

あなたの特性だとこの程度じゃ困ってないでしょう、というのは外野の勝手な意見です。どんな特性であっても、どんな検査結果がでていても、その人がその人の置かれた環境の中で困難を感じていたらそれはやっぱり「困っている」のです。困っているから、何かしらの改善や支援や対策が必要なんだろうなと思うわけです。それが個人のレベルでできることなのか、公の団体の力が必要なのかは個々により違うでしょう。

 

「日本死ね」の問題も同じだと思うのです。

当事者は「困っている」からこそ声を上げている。理由や程度の差はあれ、現状として困っているんです。


どんな風に困っているのか、改善のためには各々にどんな対策が必要とされるのか、そこには誰がどんな支援を行う必要があるのか、予算はどの程度必要なのか…それら全ては「困っている」現実を肯定しなくては始まりません。

 

エルゴが買えても、都心に住んで夫婦でキャリアを積みたいというのが誰かにとって贅沢に見えることであっても、どんな要素がそこにあったとしても、その人たちは「困っている」のです。少なくともその人たちが「困っている」ことは現実で、そこを受け止めないと話はそこから先には進まない。

 

前回のエントリで書いた問題行動を起こした子どもたちの更生も、やった行ないの善し悪しの前に「その行動を起こすほどの困難を抱えていた」という現実をまず受け入れなければその先はありません。

 

ハンディを持つ人への支援は「困っている」という当事者の現実に寄り添う視点に立たなければそこから先の状況の改善はありません。

 

保育園の問題も、当事者が「困っている」という現実がまずあるのだということ。それは周りが何をどんな風に感じても、周りの目にどんな風に写っても、変わらない現実です。その現実を肯定した先に初めて「じゃあどうしていこうか」という話がスタートするんじゃないかと思うのです。

おなかをすかせたヒヨドリと、いじめ加害者になった子どもたちのこと。

夫の実家の庭のハナミズキの木に、毎年義母がこの時期になるとミカンを半分に切って刺している。その木にやってくる小鳥たちを、義実家のリビングからガラス越しに眺めるのをうちの子どもたちや甥っ子たちが楽しみにしている。

 

ミカンを楽しみに毎年やってくるメジロ。緑の小鳥を子どもたちが喜んで、ガラスから少し離れたところで息を殺してじっと見つめる。それを義母がうれしそうに眺める、そんな春の風物詩、柔らかな春の陽射しのなかでのうっとりとした一こま…の静寂を破るのがバンバンとガラス戸を叩く音と「あっちいけ〜!」という甥の声。彼が一生懸命追い払っているのは、メジロより一回りもふた回りも大きな体の黒っぽい鳥。

 

義母が刺しているミカンを目指してやってくるヒヨドリ。小さな可愛いメジロたちを声で威嚇し、バサバサと飛んで来て追い払ってしまう大きな姿は小さな甥っ子たちにとっては悪者そのものなのかもしれない。子どもたちが叩くガラスの音にビックリして去っていくヒヨドリ、しばらくするとまた、静寂のなかでこっそりメジロがやってきてミカンにくちばしを伸ばそうと…したところにまたやってくるヒヨドリ、逃げるメジロに甥が叩くガラスの音。それが、夫の実家で毎年繰り広げられる春の光景。

 

小さなメジロにとって、そしてそのメジロを愛でたい人間たちにとって、メジロのために用意されたえさ場を荒らしメジロを追い立てるヒヨドリは悪役。あの、ギロっとした大きな目や浅黒い羽根の色、あまり品のよろしくない鳴き声、来訪を好ましく思わなくても仕方が無いのだろうなと思う。

 

 

今朝、小学生たちを送り出した帰りにまだ鳥たちがやってきていなかった寂しそうなハナミズキと義母の用意したミカンを眺めながら、少し前にTwitterのTLで賑わっていた子ども食堂の話題を思い出した。そのときにお友達Cookさん(野鳥愛好仲間でもある)と話した「子ども食堂は止まり木なのかもしれない」という話。

 

色んな子がやって来てはお腹を充たしていく場になるであろう子ども食堂。その存在を「貧困で飢えている子」に限定してしまうと本当にそうである子はなかなかそこに足を運べないだろう、それよりは誰でもやってこれる止まり木のような場所として開いて、飢えてない子、家庭で食事を食べられる子も含めていろんな立場のいろんな人たちが出入りできる場にしていたら、その中に本当に飢えている子も紛れ込むことができるかもしれない、子ども食堂ってそういう、誰に対しても開けた場であることが求められるのかもしれない、という、そんな話の中で私が出した例えが、庭のハナミズキの止まり木でした。

 

メジロという、本当に来て欲しい鳥のためにミカンを用意してはいるけれど、メジロだけどうぞ、という入り口を用意していてもメジロはそれを通って入って来てはくれない。誰に対しても開けている止まり木だからこそ、スズメも、シジュウカラもやってくる。そのなかに時々、メジロがふらっとやってきてくれる。開けているからこそ、沢山の鳥に混じってお目当てのメジロがやってきてくれるんだなぁと。

 

そしてその開けている止まり木には、望まない客ヒヨドリもやってくる。邪魔者として追い払いたくなるかもしれないしそうされてしまうかもしれない。でも、開けている以上ヒヨドリはやってきてしまうんだよね、それはそれで仕方ない。

 

邪魔者かもしれないヒヨドリは、どこに行っても嫌われるかもしれない。疎まれて行き場を無くして止まり木にミカンを求めて来ているのかもしれない。

 

でも。

ヒヨドリだってただお腹をすかせてご飯を食べに来ているだけなのだよね。

嫌われたくてそこに来ているわけじゃない。

メジロをいじめたくてわざわざやってきているわけじゃない。

ヒヨドリヒヨドリで、お腹がすいて、食べ物が欲しくて、それを探し求めてる。

 

 

 

 

数日前の息子の担任からの連絡で発覚した、とある事件。

これまで子どもたちが感情のコントロールができずに手を出してしまったりして謝って回ることばかりだった私たち夫婦が、初めて、被害者の保護者として話し合いの場に望むことになってしまった。

被害を受けてしまった子の心のケアという親としての課題を抱えながら、そんな行為に至ってしまった子どもたちの心の中のことが気になる。彼らは、甥っ子たちにとってのヒヨドリのように「悪い」印象を周りに与えてしまうのかもしれない。

 

でも私は思うのです、加害者として扱われてしまうその子たちもまた、お腹をすかせていたんだろうなということ。餌の探し方が、食べ方が、たまたまよくなかったから今回は加害児童として扱われてしまうその子たち。彼らが本当はお腹をすかせているということに、誰か気づいてくれるだろうか。

 

息子には、私と夫がいる。親以外にも理解してくれる周囲の大人が複数いて、彼をサポートしてくれる体制は恐らくはそう難しくなく整えられる。息子はその大人たちに守られ、これから傷ついた心を癒していく作業に入る。私はそれに専念する。息子は、たぶん大丈夫。じゃあ、その子たちは。

 

話し合いの場に臨む前に、それが気になって仕方が無い。彼らの空腹に気づいてくれる大人が周囲にいますようにと遠くに聴こえるヒヨドリの声を聴きながら空に願う、そんな、まだ少し肌寒い春の朝。

マインクラフトで学んでた意外なこと

ここしばらくこのブログのネタとしてもよく登場しているマインクラフト。

はまりまくっている息子たちの気持ちをすこしでも体験すべく実際にやってもみましたが、やっぱりなかなかうまく家は建てられず先日はうっかり間違えて家を溶岩だらけにして取り返しがつかなくなってしまいしどろもどろしてしまいました…

 

実際にやってみたときの感想はこちら。

 

息子らは相変わらずYoutubeのHIKAKINあたりのゲーム動画をあれこれ漁りながらなんやかんや毎日いろんなものを作ったり探険しにいったりしています。

 

最近はPE版に馬がいないことに気づいてしまい「馬!馬が欲しい!」とブーブー言っています。※馬はPC版やWiiU版、PS4版にはあるようなので実現するめにはどれかを手に入れねば…む〜。

 

さて今日は、そんな息子たちのタブレットから流れて来た音声にあれってなったお話。

 

「どこになにが入ってるか、わかりづらいですよね」

次男が見てたYoutubeのゲーム実況、そのなかで、自宅(マインクラフトでは自分で家を建てられます)に置いておくいろいろなアイテムについて話す声が聴こえてきました。

探険に出かけて採ったり拾ったりして来たものや収穫したもの、自分で作成した道具、自分で持ちきれない道具は自宅にコンテナを置いて収納できる仕組みになっています。

 

動画の中では、自宅の構造から道具を収納しやすいコンテナの置き方、中身の整理の仕方、どれも同じ見かけのコンテナに「何が入ってるか」がすぐ分かるように額縁を使って中身がわかるようにしよう!という演習まで。

 

これは…!

 

収納スキルじゃないですか

しまうものを決め、自宅のなかの動線を考え効率のよい収納の場所やボリュームを決め、収納の中になにをどうしまうかを考え、ラベリングする。

これはもう、お手本通りの収納のスキルアップ講座ではないですか。

 

動画を見て早速自分の家のなかをあれこれと改装する次男。その様子はまるで、お片づけの楽しさに目覚めて家の中をあれやこれやいじっては「構造化だ!」とか「うまくいった!」と悦に入っている私のよう…

(その様子はこちらで詳しく…)

意外なところで意外なことを

子どもたちと一緒に暮らしてて、なんとなくだけどつい、自分が教えてないこと、誰かに教わりにいかせている(園とか習い事とか塾とか)こと以外、子どもたちが身につけることを想定していなかったんじゃないか、と感じることがたまにあります。

 

とくに人なつこい次男はよくあちこちで色んな人に可愛がってもらっているので、私があまり好きでないから家では食べないラッキョウを見て「これ、皮を剥くお手伝いを前にしたの」とか、○○ちゃんちでウサギのお世話を習って来たよ、とか、意外なところで意外なことを学んで帰って来てビックリ、ということも。

 

親の手のなか、枠のなかを離れて、用意したお習い事だけにおさまらずに、彼らは勝手に世界を開拓して勝手に色んなことを色んな人に教わっているんだなぁ。

 

マインクラフト含め、ゲームってただ時間を浪費しているようにしか見えないこともあります、実際そういう傾向は否めないんだけど、でもこんなところで収納スキル講座を受けてました、みたいな、へえ意外なところでねえ…っていう発見、結構面白い。

 

マインクラフトの中では収納だけじゃなくて、鉱物の名前に詳しくなったって声も聴いたことが。

マイクラにはまってるお子さんをお持ちのお父さんお母さん、お宅のお子さんがゲームのなかから「何」を引っぱりだそうとしてるのか、よくよく観察してみたら意外な面白い発見があるかもですよ〜。

 

 

 馬!馬!と叫んでる息子たちの願いを叶えるには…

どっちかかなぁと思うんだけど、どっちも高い…う〜ん。

Wii U プレミアムセット shiro (WUP-S-WAFC)

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迷ったら母ちゃんの楽な方を選んでいいんだよ

末っ子三男が生まれて少ししてから始めたのがTwitter。そこでは同年同月に生まれた子のいるお父さんお母さんたちとタグを通していっぱい繋がって、そのときどきの悩みを夜な夜な話してきたなぁと思い出す。

 

うとうとしつつも自分から離れない乳児に授乳しながらガラケー開いて小さな画面のなかに自分以外に起きてる人がいるのがなんかうれしくなったり、子育てのことや夫のことなんかをぽろぽろ愚痴ったり。

 

今日のTLに、久しぶりにそんな時期を思い出すアンケートが流れて来てた。1歳児の離乳食について。遊び食べ、手掴み食べ、その単語のひとつひとつすら懐かしくてなんだかじわっと色んな思いがこみ上げてくる。

 

数日前に流れて来てた、漫画家の西原理恵子さんの「毎日かあさん」の一節「なんで家事なんかしてたんだろう、もっと抱っこしてあげてればよかった」って言葉に、前思春期に入ってもう私を恋しがることもなくなっちゃったデカい息子たちが私に伸ばしてたかつての小さな手のひらを思い出しては目が潤む。

 

Twitterを続けてると、乳幼児育児にどっぷりつかってたあの頃の自分にふと引き戻される瞬間がときどきやってくる。小さな長男が仕事用のPCに向かう私の足に絡みついていたあのときに、なんで私は仕事してたんだろう、やめて抱っこしてればよかったなぁってサイバラさんばりに思い返してみたりもする。

 

子どもたちと一緒に暮らし始めてからもうすぐ12年になる。

 

離乳食をどうするか、目の前で遊び食べしてるのをいつ止めたらいいか、靴下ははかせたほうがいいのかよくないのか、どのタイミングで病院に行ったらいいのか、発達の困難をどこに相談したらいいのか…日常の些細な疑問から子どもたちの人生に関わるかもしれない大きな選択まで、12年間に本当に毎日毎日いくつもの「どうしよう」とつき合って生きてきたように思う。

 

そのときの私がそのときの精一杯で、情報をかき集めたり誰かに相談したり悩んだり泣いたりしながら右に行くか左に行くかを考え選択してきたのだけれど、通り過ぎてきていま、その道をふりかえってみて思うこと。それが「私が楽な方にしとけばよかったんだ」ということ。

 

子どものためと思って辛い方の選択肢を選んできたことも何度も何度もあった。でもその重さに耐えきれなくなってイライラが募ったり、しんどくなったり、夫に泣きついたりすることもたくさん。

 

母ちゃんが笑顔でいられない選択肢をなんで私は選んじゃったんだろうと、通り過ぎたいまは思うのです。

 

どうしようって悩んでいる、というスタート地点に立っている時点で、あなたはいい親だと思う。

 

だから、子どものためを思って辛い方の選択肢は選ばなくていいんじゃいかな。迷うという、いい親の条件を満たしているのだから、あとは子どもの前でいい笑顔でいられる方を選んでも間違えないと思う。

 

困ったら、楽な方を選んでいい。

 

笑顔がわからなくなったら、鏡の前や誰かの前で、自分の子どものいいところを話してみて。その顔が、あなたのいい笑顔、お母さん(お父さん)のいい顔。それを子どもに見せてあげられるような、楽な育児をどうか選んでください。

 

迷ったら、悩んだら、困ったら、自分がいい顔でいられるような楽な方を。それが、たぶん子どもにとっての一番の栄養だから。

夫の「聴いてなかった」に対するイライラ案件を掘り下げる

お昼休み明けにTLを眺めていたら、RTされて流れて来たとあるツイートが気になりました。お子さんの小さい男性が奥さんから指摘された、自分の話を全然聞いてないという苦情についてのツイート群。

 

ハナイリスさん引用の快諾ありがとうございます。

とても気になってそこから色々と考えてしまったのでそれをまとめてみたいと思います。

 

とりあえずの前提として

・奥さんと和解し平穏に暮らしたい

・聞いてないのだからなんとかしてほしいと言われても具体的な「聴く」対策が無い

と仮定してみます。2つめに関しては妻側の視点からは「あり得ない」と思われるかもしれません。怠けているだけだ、努力すればなんとかなるはずだ、と思えるかもしれません。が、そこで立ち止まったらそこから先には進めない。とりあえずそれについて考えることからスタートします。

 

「聞いてない」のではなく「聴こえていない」可能性

声が耳をスルーしていく怪奇現象

私が「#アホ男子母死亡かるた」のタグでネタを投稿したりしていたとき、かなりの数寄せられたのがこの、聴こえていない問題だったなぁと思い返します。もちろん男児に限る話ではないんですが、うちの4人+夫を見ててもとにかく男子の耳スルー率の高さたるや。生返事が返ってくることも多いので、こちらからしたら聴こえている前提で話をしているのだけれど、あとから確認するとその内容はまったく彼らの脳に記憶されていなかった。最初に紹介させて頂いたツイート主さんも同じ現象です。

 

聴力の問題?

息子たちの耳スルー率が異常に高くイライラが募っていた時期、たまたま行った耳鼻科でそれを相談したら「じゃあ聴力検査してみようか」と言われお願いしたことがありました。痛みを伴わない中耳炎などの耳の病気で聞こえが悪くなる可能性もゼロではないなぁと思ったのですが予想に反することなく診断結果は異常なし。聴力に困難があり聴こえていないわけではけしてない。

 

当たり前といえば当たり前なのです。

彼らは学校で授業を受け指示通りに動くこともあり会話も成り立つ、聴力に問題があればその日常生活の中で何かしらの困難が拾い上げられていたと思われる。それはない。

 

じゃあ意識の問題?

聴力に困難が無いなら、じゃあ聴こえているはずじゃないか、と思うと思います。私も思いました。そもそも生返事でも返答が返って来てるということは何かしらを話しかけられていることは分かっているということでもある、聴こえてるじゃん!

ということは意識をこちらに向ければ耳に入るんじゃないの?記憶できるんじゃないの?やっぱり「努力すればなんとかなることをやってないんじゃないの!」

 

と思って私はさらに「だから努力しなよ」と思ってたなぁと…。恐らくは最初に紹介したツイート主さんの奥さんも似たような感じじゃないかなぁと思うのです。

 

「聴力」ではなく「聴覚認知」の問題の可能性

「返事はあるのに聞いてなかった」現象について考えられることとして、聴覚の認知能力に問題がある可能性があります。「聞いてない」のではなくて「聴こえていない」のかもしれない。聴力に問題が無いのに聴こえてない、って不思議かもしれません。

認知特性については過去に書いたことがありました。

 この中で紹介している書籍(Amazonの画像変わってました)

医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン (光文社新書)

医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン (光文社新書)

 

 この中で簡単なセルフチェックで自分の認知特性の傾向を知ることができます。認知特性やその偏りというと発達障害の話のように感じられるかもしれませんが、以前から何度か記してきたように発達障害という枠のなかで支援を必要とするかしないかという話ではなく、どの人にもそれぞれに認知特性の偏りはあるのではないかなと私は思いますしこの本でもそのように取り上げられています。

 

認知特性にはさまざまな項目がありますが、今回はその中の「聴覚の認知」、聴力に問題があるわけではないけど耳からの情報が入りづらい状態のことです。本人にとっては生まれてからずっと続いているし他人とどう違うか確認がとりづらいことなのでなかなか自覚はないと思いますが、会話や授業など意識を集中させているときにはある程度聞き取ることができていても、意識をそちらに傾けてないときには耳から音声が入って来てもそれが言葉として脳に伝わらず、結果として反対の耳から通り抜けて記憶されないままになってしまう…

 

それが結果として「生返事ばかりでちっとも聞いてない!」「意識すればできるのにできてない!」になってしまっているのかもしれません。

 

「やらない」じゃなくて「できない」だとしたら

今回は聴覚認知の問題の可能性について掘り下げましたが、この限りではないかもしれません。他にも「できない」理由がさまざまにあるかもしれない。ツイート主さんのケースの詳細はわかりませんが、妻から何度も要求されてもそれが実行にうつせてない現状は本当にやる気の問題なんでしょうか。

やる気の問題であり和解を臨んでいて要求の内容が明確なら、能力がある人ならやるはずです。でも、やってない。

 

それは、私は「やらない」んじゃなくて「できない」だと思うんです。

 

そこを「できるはずだ」と思っているうちは解決はないと思います。前回のエントリで書きましたが部屋を構造化することで片付けができなかったはずの私の家が片付いたように、意識を持つとか努力するとかの個人の頑張りに委ねていても解決しなかった問題が、「これではできない」を自覚し、自分の性格や習慣を考え「できる方法を探る」ことで解決に導くことはできると思うのです。今のやり方でうまくいっていないのなら、それはその家庭には合ってない。そのやり方では「できない」ままなのです。

 

「できない」→「受容」→「構造化」

何が理由かはケースバイケースだとして、要求されていることが「できない」なのだとしたらまずその事実を受容せねばなりません。沽券に関わるかもしれませんが、何かしらの要素があり恐らくは奥さんが要求していることは夫である自分にとってはハードルが高過ぎることなのだということ。能力が足りないということ。無理だということ。

 

それは自分の能力が低いということを認めることにもなるかもしれませんが、相手の求めるものが高過ぎるという可能性ももちろんあります。能力の高低ではなく、手法が夫婦双方にとって適切ではない、ということだと思うと楽かもしれません。

 

「できない」ことが悪いのではなくて方法が合ってない、必要なのは片方の努力ではなくて「夫婦間コミュニケーションの構造化」です。

 

できないことを要求されているのだから、それは相手に理解してもらわねばなりません。自分には何かしらの理由がありできないのだということ、無理なことを要求されているということ、問題解決の意志はあるがその方法では難しいということ、改善のための擦り合わせをする必要がありそのためには妻側の協力が必要だということ。

 

構造化の方法を考える

どうやったらできるだろう、これはとても難しい問題です。

声の掛け方を工夫する

例に挙げたような聴覚認知の問題であれば、よく勧められるのは声の掛け方です。聞こえに問題のある子への学校や家での対処法として、遠くから大きな声で名前を呼んだり話しかけたりするのではなく、近くへ行き肩を叩くアクションと同時に名前を呼び、相手が作業をやめ顔を向けてこちらに意識が向いたところで会話を始める、という手法があります。

 

LINEを利用する

また、うちの夫は聴覚認知に問題はありませんが夫婦間で話す時間が取れずに伝えられないことが多いので思いついたときにLINEに書いとく、というのも多いです。お互いに言った言わないの話にはなりにくい。聞こえに問題がある方のなかで視覚優位の方も多い。耳から入る情報より画面上に写る文字を読む方が理解しやすいケースもよくあります。

 

聴覚優位か視覚優位かのチェック法

聴覚か視覚か、どちらが認識しやすいかの判断法として仕事上の指示が聞きやすい方法は何か?と考えてみることをお勧めします。

私は資料を手に上司がこんこんと喋られるのが苦手です。その場で聴くのも辛いし、あとからそれを思い出しながら作業しても漏れが多くてミスが頻発してしまうこともよくあります。指示をメモにきっちり書いてもらえたり、その場でメモをとりれたらミスが減らせる。

口頭での指示が吞み込みやすいのか、書面での指示が理解しやすいのか、自分が、配偶者が、どちらのタイプなのかによって対応を工夫するとスムーズにやりとりできるかもしれません。

 

「ふせんの提案」がなぜダメだったのか

長々と書いてきましたが、構造化でいいなら最初のツイートにあった「ふせんをはればいい」という提案でよかったじゃない、と思われるかもしれません。

なぜ「ふせんを貼って」という提案がダメだったのか、を最後に書いて終わりにしたいと思います。

 

「できない」を認めていない

こうしてくれたらいいと思う、という提案には、構造化に至るまでのステップに必要だった、自分の「できない」を認める「受容」のステップが抜けているんですね、ここが問題です。

 

相手が変わってくれたらいいという視点

受容のステップが抜けているので、自分には非が無いという前提に立っていることになります。(非というと「お前が悪い」と受け取られるかもしれませんがここでは「要求に応えられない」というマイナス要素という意味合いで考えて下さい)自分にも非があるともし思っているとしても相手にそれは伝わっていません。

 

自分に非が無く変わる必要が無い、と考えているであろう相手から「こうしてくれ」と改善方法を自分に投げられてしまってそれを快諾できる人はめったにいないと思います。相手が変わってくれたら解決する、という視点に立っている以上問題は改善せず拮抗状態が続きます。(これは妻側にも同じことが言えると思います)

 

おわりに

うっかり長々と書いてきましたが、私があえて掘り下げて考えただけで当該のツイート主さんが解決を望んでいるかはわかりませんし愚痴って終わればそれでよいというケースの可能性も十分にあると思います。

 

そして大前提として、奥さん側としても具体的な改善策は求めていないかもしれない。ただ自分のイライラした気持ちを夫にぶつけてそれを聞いてもらえば良かっただけかもしれない。

 

本当の解決方法はおそらくは夫婦の数だけあるわけで、私がここで書いてきたのはほんの一例でしかないのだろうと思います。自分たちの認知特性の傾向や生い立ち、性格や今の生活の環境…色んな要素をコツコツと割りながら考えていくことで自分たちだけの最適な方法、うまくコミュニケーションがとれる「正解」にいきつくことができるのかもしれません。

「片付けられない女」が片付けられなかった本当の理由

片付けられない女

片づけられない女たち

片づけられない女たち

 

 はい、私のことです。家族と暮らしているしそれなりの外面を維持したいのでできるだけと思って片付けてはいるのだけれど、油断したらすぐ部屋が散らかるのは独身の頃から。子供たちとの暮らしはそれに拍車をかけ、仕事が忙しくなったりすると途端に部屋は強盗にでも入られたんですか状態になってしまうことも…。これではいかんと思って一念発起して大掃除してはその場で満足し、またすぐに散らかっては落胆し、の繰り返しでした。

 

自宅を構造化する日々

ここしばらく、このブログやTwitterでもちょこちょこと触れているように自宅の構造化について考え実行を続けています。

 

来年度学校関係でちょっと大きい役を引き受けることになったので、これまでに加えてもっと家事の手間を減らしたい、ちょっとした不便さで起こるイライラを解消して機嫌良く過ごせる家にしたい、子供たちの友達がよく訪ねてくるのでなるべく綺麗な状態に保ちやすい家にしたい、自分だけが頑張らなくても家族が自然と片付けやすい家にしておきたい、そのへんが主な理由です。

 

台所とお風呂場から始まった自宅の構造化の旅は、まず物を厳選することから始まりました。

 

本当に必要なのか

今自宅にあるこれは本当に必要な物なのか、を徹底的に考える。なくてもなんとかなるのか、ないと本当に困るのか、考えた末必要な物以外はバッサリ捨てる。断捨離です、断捨離。

ときめくかどうかという基準の本もあるらしい、しかしながら日々家事育児仕事におわれる私の判断基準はときめくとかではありません、暮らしのなかで必要かどうか、それだけ。

 

私はミニマリストのように「物を減らす」ことが目的ではないんですね。「不要な物を置かない買わないことで自分の買い物や片付け作業の負担を減らす」ことが目的なのです。

思い切って捨ててみて、数日うちに「あ!あれがやっぱり必要だった!」と思ってしまったものもあります。思い切って片付けてから数日は自分が考えて出した結果の答え合わせを毎日している感じです。捨てちゃってごめんねと改めて買いにいったものもいくつか。でもこれを意識しはじめてから買い物に費やす時間がかなり減りました。「なにを買おうかな」と思う時間がなくなり、うちの定番を買い足すことに集中できるようになったからです。

 

どこで必要なのか

厳選されたそのものを「どこに」置くのかも大きな問題です。

置き場所を失敗してしまうとタスクが増えることになる。必要とするその場で取り出しやすいこと、使いやすい場所に置くこと。

これは実は使いやすさを優先したいからではありません。実は優先したいのは「片付けやすさ」。

使う場に近いということは使い終えてから収納するまでの行動が短くて済むということ。つい違う場所に置いてしまって散らかったり、どこに置いたかわからなくなって後から探すという手間を極限まで減らしたい、だから、使ったらすぐ片付けられる場所に置いておきたい。

 

だから、物を一つずつ眺めながら考えます。私はこれをどこで使うのか、家族はどこで使うのか、どこを定位置に決めたら自然ともとの場所に戻りやすいのか。

 

必死で考えて定位置を決めてみて、数日うちには答えがわかります。

誰が使ってもその場に戻っていたら、それはうちの家族にとっての正解。でも何度も定位置にないそれを私が元に戻すはめになったら、それはうちの家族にとっての不正解、もっと違う適切な場所がきっとあるんですね、他に。

 

紹介されている収納法をうまく活かせない自分への自己嫌悪

テレビや雑誌でよく特集されているほど、収納って興味をひきやすい、関心を持っている人が多い分野なのだろうなと思います。私も最近はあまり買わないけどたまに病院の待ち合いや美容院で雑誌を見るときはよくその手のものをつい読んでしまいます。

 

このやり方がおすすめ!というやり方をそのまま真似してみたけどなんかしっくりこない、ということも何度もありましたし、おすすめの収納用具を買ってみたけど使い勝手が悪かったってことも。

 

収納の知識を持っている方、資格を持っている方が勧めているやり方を真似てもうまくいかなかったのは「やっぱり私が片付けが下手だからだ」と思っていました。自分が片付けられないから、自分が注意欠陥気味だから、だからできないんだ、ちゃんとした人がこのやり方でやったら家は片付いていたんだろうな、って。

 

だからいろんな雑誌を読んで、いろんな番組を見て、紹介されている方法をやって自分の収納スキルを高めないとダメなんだ、と思い込んでいました。できない自分が能力を高めてできるようにならないといけないと思ってた。「普通に」できる人になりたい、同じやり方でできるようにならないといけない。

でも同じ方法では当然「できない」。その繰り返し。

自尊心は当然駄々下がりですね。

 

上手に片付けられなかった本当の理由

でも「自分が使いやすいように」「自分が片付けやすいように」「家族がわかりやすいように」「家族がついしまいたくなるように」という視点に切り替えてから、驚くほど家が散らからなくなっていきました。

 

本や雑誌で紹介されている方法をそのまま真似るのではなく、どんどん捨てていくのでもなく、ひとつひとつの物について自分や家族が本当に必要としているかを考えて選び、使いやすくしまいやすい流れを考えて定位置を決める。

収納について考えているようでそれは実は、私や私の家族そのものについて考えていたんだなぁと思ったりします。ハサミをどんなときにどこで使うのか、よく使うのは誰か、なんのために使うのか、それはおうちによって様々に違うはず。リビングの引き出しに入っている方が使いやすいのか、ダイニングテーブルの側の方がいいのか、どこにあった方が便利でかつ片付けの負担が少ないのか。それはその家のその家族それぞれの暮らし方で決まってきます。ハサミが本当に必要なのかも、いくつ必要なのかも、どこを定位置にするのかも、正解は家族のそのときごとに違うんですね。

 

誰かの真似をしてもしっくりこなかったのは私がその収納を考えた人ではないから。その人ごとに家族ごとに必要なものや定位置の正解が違うのだということに気づいていなかった、考えていなかった、それが、私が家を片付けられなかった本当の理由だったんだと思うのです。

 

おわりに

収納を考えるとは自分のあり方を見つめ直すこと。「収納はその人そのものである」なんてポスターにでもしてみたくなるような壮大なコピーを思いつくほどに、家の中の物の定位置を考えていくことはひとつひとつが自分と家族の今を考えることにつながっています。私と夫と4人の子供たち、それぞれの今の状況、能力、暮らし方、好み…いろんな要素を丁寧に考えていくことで「これはここ」という正解らしいものが見えてきます。そしてそれを試してみると数日うちには誰が意図したわけでもないのに正解か不正解かが私に突きつけられることになる。そんなちょっとしたゲームを毎日楽しんでいる感じです。今の正解もまた家族の暮らし方が変わっていけば不正解になる日が来るかもしれない、そのときにはまた正解に行き着くように考え直せばいい。

 

自宅の構造化の一番の目的は、私が苛立たず子供たちを叱らずに済むこと。逆に言うと私はこれまで、暮らし方をていねいに意識していなかったがために無駄にイライラしたり子供たちを叱ってしまったりしてきたということでもあります。定位置がわかりにくいしまいにくい家でどんなに片付けろと叫んでも子供たちには何のメリットもなかったんですね、ほんと反省しきりです。

 

反省を前向きに発展に変えるために、今日もせっせと構造化。お風呂場、脱衣場、台所、冷凍庫、ときて今の課題は「冷蔵庫の野菜室」です。

 

こないだ読んだ本、漫画なのでサクサク読めて面白かったです。

 気になってる本

のび太ジャイアン症候群の司馬先生の本、Amazonのカートに入ったままなのでそのうち読みたいなと。 

 

 収納と構造化関連の記事いろいろ。

suminotiger.hatenadiary.jp

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つまんない授業と聴いているふりをするスキル

TwitterのTLに流れて来ていた、授業中に絵を描いてたというツイートを見て思い出した自分の過去。

 

小中高と、なんで自分はここに座ってこんな退屈な時間を過ごさねばならないんだろうとずっと思ってた。先生は教科書に書いてあることを喋ってるだけだし、それは教科書を読めばわかるし、教科書を読んでなくても授業が始まって数分で内容は頭に入ってきたし、出される課題も先生が提示した時間の半分以内には終わってあとは何もすることがない。ここはなんて退屈な場所なんだろうと思いながらぼんやりと外を眺めたり、ノートの隙間に絵を描いたり、隣の子に話しかけて叱られたり、手紙を書いてまわしては叱られたりしながら過ごしてた。

 

高校生にもなると夜更かししたりもするようになって昼間眠い。退屈な授業はちょうどいい催眠術となって私を心地よい眠りに誘う。春先なんかもう眠くて眠くて仕方なくて、つまんない授業のときはほとんど寝てた。業を煮やした化学の先生から教室中に響く音でげんこつをくらわされたけどあれは私立高校だったからアリだったのか、昔だったからアリだったのか、みんなが何とも思わないほど私の睡眠が度を超していたからだったのか。

その後呼び出された職員室でその化学の先生と担任だった数学の先生が「こいつはずっと寝てるくせに点は取れるからむかっとくるんだよ」と笑い合っていたからあぁ良い学校に入ったんだなとそこからも卒業までそれなりにのびのび過ごさせてもらった。

 

高校の途中からはノートを取るという趣味ができた。ルーズリーフ1枚にすごい細いペン(当時発売されたばかりの0.3mmのボールペン)を使って小さな文字とイラストで1単元を丁寧にまとめあげるというのをやったらクラスの友達にすごく受けてテスト前にコピーさせてくれと頼まれたのが嬉しくて、そこからは授業中は延々それを書いていたので叱られることがなくなったなぁ。

 

先日のこと。

小学校4年になる息子の担任と話したとき、次男の授業中の様子について「授業聴いてないな〜ってことはよくあるんですが騒音など実害のないものはスルーしてます」と仰っていて、先生のご理解に頭が下がる思いだと何度もお礼を言った。次男と話してみると想定のどまんなかの答えが返って来た。

 

「だって、知ってることばっかり先生が話すからつまんないんだもん」

 

そうだよね、うん、お母さんもそうだったわ、ごめん遺伝だわ。

 

つまんない授業をどうするかを息子と話す。とりあえず実害(立ち歩きや騒音など授業の邪魔になるもの)はダメだよねという概念を息子と共有する。うんそれはよくない、じゃあどうしよう。

 

「とりあえず、つまんないなと思っても座っとかないといけない」と次男。

うん、それが君にとっての授業だ、登校する以上やむを得ない、仕方ないから対処せねばならない。

 

次男と考えたのは、たとえば「一人しりとり」脳内で延々自分と自分でしりとりを繰り返す、これは母ちゃんも昔よくやった。あとはお話を考えて脳内で再現して楽しむ。読んだ漫画を思い返す(これは夫がよくやってたらしい)。

 

ここまで話しながら、なんでこんな苦行やらないかんのかなあと自分の中に違和感がもりもりと盛り上がる。つまんない話を1日数時間聴き続けないといけない。もう知ってることやすぐにわかることだけが積み上がっているのに。

 

ここでつい思う。クソみたいだな、義務教育。個人の能力に合わせてステップアップどんどんしていって個々に伸ばしていけたら…(でも家庭で十分にそれができないのわかってるし、知ってることが口からでちゃうタイプの次男は先取り学習は控えてるのでそうもいかないからそもそも無理なんだけど)

 

でもね、ともう一人の私が横から声をかける。

「座って話を聴く姿勢を持ち続ける能力、ほんとに要らない?」

 

大人になった私が、その「座って人の話を退屈だと思いながらも周囲から浮かないように聴き続ける」場面に出会わないかというとそうでもない。園や学校でいろんな式典の長々とした挨拶、興味ない話題だけど参加しないといけなかった講演会、役柄上出席しないといけない会議、いやちゃんと聴かないと困るものや必要なものの方が多いんだけど、でも「なんでここに座っとかないといけないんだろう」とモヤモヤしながらも時間を過ごさないといけない場ってときどきある。

 

それに、本当にクソみたいにつまんなくてもその話を興味をもって聴いている素振りを見せる子は有利だ。内申点も良いだろうし、就職してからも評価は聴いてない奴より良いかもしれない。聴いているような素振り、無駄とはけして言えない。

 

周囲から浮かずに授業という流れの中で違和感なくそこに存在し、話を聞いているように話者に感じさせることが出来る、これも一つの能力なんだろうなと思う。それを入学した頃から、いやその前から誰かに教えられることもなく手にすることが出来る子もいるんだろうと思う。うちの4人の子のうち私は教えてもないけど出来てるなって子が複数いるから、成長するなかのどっかの過程で掴めるタイプの子もいるんだろうな。

 

でも私も次男もそうじゃないっぽい。

 

次男が「おれはつまんねえ話なんか聴かないぜ!」っていう豪儀な言い分が通るような高見に登っていけるなら、必要ない能力かもしれない。今の彼の持ってるものを磨き伸ばしてそこに行き着くようにサポートしていくのも、親としての一つの方向かもしれない。

 

でも彼がそこにいけるかという針の穴通すみたいな目標を持つことは私にはできない。

とりあえず授業はつまんねえかもしれないけど、お利口さんのふりをしてたら通知表の丸、たぶん増えるよ、聴いてるふりをし続けるのもまぁそのうち役に立つかもしんないよ、話聴いてるふりしてたら意外と面白い話も聴けるかもしれないよ、悪いことばっかじゃないと思うからとりあえず前向きに「座って聴いてるふり」しとこうぜ、っていうのが次男と私の結論。

 

私はこれまで幸いなことに、授業中露骨に話を聞いてなかったことについて激しく怒ったり面倒なことを言うような先生には当たったことがなくて、それはほんとにラッキーだったんだなってTwitterやなんかで色んな方のお話を聴いてると思う。

 

話をちゃんと聴いてないってことで感情高ぶらせて怒る大人はいるね、うん私も時々ムカッと来るから他人事じゃない。

 

もしかしたら次男がこの先出会う指導者や上司のなかにその手の人が居ないとは限らない。その時にその態度を理由に理不尽に傷つけられることはできれば防ぎたい。

 

「聴いているふりをする」にはスキルが必要なタイプの子もいる、私もそうだったけど、でも大人になってみるまでそのスキルというものが存在することも、社会の中で生きて行く上で身につけといた方が得なのも知らなかった。教えてくれる大人には出会わなかったなぁ。出会えてたら人生違ってたんだろか。

 

そんなこんなを話して数日後の次男の感想は

「座ってぼーーっとしてるとさぁ、色々考えることあったりするね、うん」

だそうです。

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