スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

産後「夫にこうしてほしい」と思うときそれが「私になって」ではないかはよく検討した方がいいという話


先日、ずっと気になっていた「大同電鍋」をついに購入いたしまして、さてその紹介記事でも書こうかしら、と思っていたところで何気無く呟いたツイートに「ブログに書いて」とリクエストをいただきましたので、今日はそのことについて書こうと思います。

 

「泣いたら抱っこする母親と諸々確認して放置の父親」の話とTwitterの反応

数日前にTwitterでバズってたツイートなんですけれども、私はこんな感想を書いてました。

 

このツイート主さんの過去のツイートが色々アレだったこともあるらしく、また内容に関しても賛否を読んでいろんな方が言及されてました。

 

「泣いたら抱っこ」というのを肯定する声もたくさんあり、その中でふと目に留まったのが、赤ん坊が泣いたら自分と同じように抱っこして欲しいんだ、という母親目線の主張でした。

 

気持ちはわかる、けれど思うこと

長男が生まれてすぐに泊りに行った夫の実家でのこと。

やっと寝た長男を夫に任せてお風呂に入っていたら聞こえてきた泣き声。

夫も義父母もいるから誰かが…と思っていたのにしばらく泣き止まず、我慢しきれず風呂から飛び出し、髪を拭く間も無く長男のいる客間にダッシュして抱っこ。こいつらに二度と任せるか!とムキーーーーー!っとなったあの日を思い出したりもしました。

 

そんな自分の経験があるからこそ、思うことがあるのです。

それが、今日の最初のツイートでした。

 

産後の「ガルガル期」に陥りがちな「私になって」という願望

自分で書いていてとても胃がキリキリするような話なのですが、産後のメンタルが不安定になりやすい時期、夫に対して「こうしてほしい!」と強く思うことが色々とあった記憶があります。

 

泣いている赤ん坊を抱っこせねばならない!という自分の中に湧いてくる感覚のように、母親(ここで母と限定していいのかどうかはわかりません)の「直感としてそうしたほうがいいと感じること」「本能的にそうしたくなること」という感覚に支配される感じがあったような気がするんですね。

 

これは産後だけでなく、妊娠中に突然人に触られるのが嫌になったり、身の回りの片付けをしたくなったり(妊娠中に読んだ本に「巣ごもり期」と書かれていた記憶があります)というような、エビデンスに基づいた知見ではなく、本能という言葉がふさわしい野生的な感覚が湧き出てくるような、そんな経験がありました。

 

その、湧いてきた本能的な欲求に突き動かされるような側面がありつつの産前産後の自分にとって、目の前の夫が同じ感覚で動いていないように見えることが時に大きなストレスになっていたような気がしています。(そういうエントリもかなり書いてきましたねえ)

 

当時を振り返って、あの頃の私が夫に求めていた、求めようとしていたことは「エビデンスに基づいた正しい育児をしてほしい」という冷静で論理的な要求というよりは、「私と同じやり方をして安心させてほしい」「私のやり方が良いのだからそれに従ってほしい」という、「私になって」だったような気がするのです。

 

そして、夫にそれを突きつけることで夫婦間のすれ違いが起こりやすかったことは、このブログでも何度も書いてきたことだと思います。

 

ガルガルな私と、一歩引いて冷静な夫

当時の私を夫は「育児ノイローゼってこんな感じなのかなと思ってた」と振り返ります。

私は私で精一杯頑張ってきたと思うけれど、ときに子供に寄り添いすぎたり心配しすぎて判断を誤りかけることも。

そんなときにガルガルした私を冷静な言葉で落ち着かせてくれて、本当に子供のためになるのはどんな判断かを一緒に考えてきてくれたのが父親である夫でした。

 

子供たちが全員思春期に入った我が家、私は産後のガルガル期をとっくに抜けているはずなのですが、それでもやっぱり子供のこととなると冷静ではいられなくなることもしばしば。

 

何かを判断したりするときには夫と情報を共有し、彼の視点からの意見を聞いていますし、いまだに「あぁ自分は不安に駆られて冷静でなかったな」と思わされることも。

 

客観的な情報をもとに行動を見直してみる

ここまで読んでみて非常に穏やかで平和な家庭のように思われるかもしれませんが、いやいや夫婦間で意見が合わないことも、その態度はひどい!と私が怒ることもしょっちゅうあります。

 

夫が表出した言葉や態度が自分のよしとするものと違ってくることは日常茶飯事。

 

その中でこれは放置しては子のためによくない、と思うときは指摘して話をする場を持つことが多いです。

思春期の子に対して夫が取る態度が子供を傷つけたり頑なにしたりする様子を察知して夫に指摘する、そんな場面が最近は多いかな。

 

私が夫の言動の是正を求めるとき、「私が正しく標準である」というスタンスを私がとってしまったら、話はうまくいきません。

 

専門家の知見や主治医の助言、書籍で得た知識や先輩の経験談、科学的なエビデンス、それらある種客観的な判断基準を頭に並べながら、夫(と自分)の言動について整理する。

こういう理由があるから改善した方がお互いのために良いと思う、ということだけ話をするようにしています。

 

もちろん夫から私のよくないところを指摘されることもあり、その時も同じようにどう改善した方が良いのかを上記のような客観的な情報をもとに考えようと心がけてはいます。

 

違う脳みそを持った違う人間だから

言葉にすると至極当たり前のことなのだけれど、夫婦として暮らしているとつい疎かにしてしまいがちだなぁと思うのです。「私とあなたは別の人間」ということを。

 

自分が何かに邁進しているときに同じ速さで並走してくれたら、同じ感覚でフォローしてくれたら。

その溶け合うような感覚はきっととても心地よくて、弱っているときは特にそれを求めてしまいたくなるものなのかもしれない。

 

でも、もともと他人で、たまたま縁あって一緒に暮らしているだけの、違う脳みそと違う体を持った全く別の人間なのだから、考え方も子に対するスタンスも、違っていて当然なんですよね。

 

よく「両親が同じスタンスでいないと子供は混乱する」と言うけれど、我が家の子供たちはかなり小さい頃から私と夫それぞれに対して「父ちゃんはこうだから」「母ちゃんはこうだから」とさっぱり割り切っているような気がします。

 

違う人間なのだから価値判断基準が同じなわけないんですよね。

それぞれに考えがある、というのも、それに基づいて行動しているというのも、どちらも至極当たり前のことなんだろうな、と思っています。

 

それは子供たちに対しても同じ。

私の子とはいえ、別の人格を持つ別の人間。

でも母親として彼らに接していたら我が子のこととなるととても冷静ではいられなくなることも当然ある。

そんなときに、自分とは違うスタンスで家庭にいる存在として夫に助けられたことは一度や二度ではありません。

 

最初に紹介したツイートの元のお話は賛否もあるけれど、あの「夫婦で話をしてお互いの違いを面白いと思って互いの行動を見直していく」という姿勢そのものはとても興味深いと私は思いました。

 

私が「私になって」を夫に求めないことが夫婦間の安定の大きな鍵でもありましたし、また夫が自分とは違うスタンスで子供と暮らしてくれているのもまた、私にとっての救いとなっているという、そんなお話でした。

 

おまけ

夫婦間のスタンスの違いについて書かれた本があり産後に読んだ記憶があります。

リンクを貼ろうと今見たら2014年発売になっているけど読んだのもっと前のような…記憶があやふやです。

おぼろげな記憶ですが、類人猿の研究をもとに「母子密着で育つ子供が親離れをしようとするときに子供から母親を引き剥がすのが父親の役目」という、そんな内容だったなぁと覚えています。(不正確で申し訳ない)

この論そのものや本全体に対して全面的に賛同するわけではないのですが、面白い視点だなと思ったのは覚えています。

 

本棚のどこかにはあると思うけれどさっと見つからず再読もできていないままのため、この程度の記述にとどめますが、まぁご参考までに。

 

 

 

 

 

 

 

スポンサードリンク