スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「ありがとう」から始まったツイートまとめ(障害者差別解消法と合理的配慮について)

次男の高校での合理的配慮のお話の続きを書きたいなぁと思っていますが、今日はその前に、ここ数日話題になっているテーマについてのツイートのまとめを。 ここから始まる一連のツイートへの反応をたくさんいただいています。長くて連ツイでは読みづらいというお声もあったのと、ツイートはどんどん流れていってしまったりもするなぁという思いもあるので、今回大まかな流れを保持した上で一部加筆修正したものをここに保存しておこうと思います。
長いツイートにさらに補足しているので、とても長いです。
 


「ごめんなさい」「ありがとう」「こまっているので助けて」という言葉

前に「ごめんなさい、ありがとう、こまっているので助けてください、が言えるようになるとそこから人生が変わるよ」とツイートしたことがあります。

 

私自身これらの言葉を言うのがとても苦手で、人を頼るのが難しく、なんでも抱え込んでしまっては爆発していた過去がありました。(今もたまにやらかしますが)

自分の失敗やいろんな人の声を聞きながら、これが言えるようになったら楽になる、と実感し、それを呟いたものだったような記憶があります。

 

ここ数日、伊是名さんのブログ記事を発端とした色々なご意見がTwitterを飛び交っています。
伊是名さんご自身に感謝の態度があったのか否か、足りないのではないか、という流れでのご意見も多く見られています。
そのようなお話を眺めながら、過去の自分のこのツイートを思い返した時、「この言葉が難なくスルスルと出てくる生活をしている、というのはとても恵まれている、安定している、ということなのではないか」と感じたのです。
もちろん、私もそうだったように、社会の中でなるべく適応して生きていくため、努力の末にそこにたどり着く方もおられることでしょう。
これらの言葉は「言えると楽に生きられる魔法の言葉」かもしれません。
でも「だから使うべき」という話にしてしまって本当に良いのだろうか、とも思ったりするのです。
 

障害のある子を育てる中での「ありがとう」

障害のある子を育てていく中で、配慮を得るために低姿勢に、穏便に、温和なそぶりで話を持ちかけてなるべくこちらの利を多くしようとするようなハックを我々は使うことがあります。

 

また、ときにそれを人に勧めることもあります。

目の前の我が子の利益のためにはそれが妥当な選択だということを肌感覚で知っているからです。

そしてそれはまさしく、今回吹き上がったような
「低姿勢で申し入れをしてありがとうを繰り返す障害者が受け入れられやすく、またその逆を張ると叩かれる」
という現実を如実に反映しているものでもあります。
 

諸刃の剣にもなり得てしまう、腰の低さ、穏便さ

しかし、現場でそのハックを駆使しながら、ときに「これは諸刃の剣だ」と感じることがあります。

こちらが低姿勢でいることで法律や仕組みの上で義務やすべきとなっているような内容も軽くあしらわれるような結果になってしまったり、あの保護者もこんな風にしてくれたらという教育者・支援者側の感情を左右する要因にもなってしまうからです。

実際に現場でそのような愚痴を聞いたこともあります。

(「あの方みたいに言ってくれたらこっちもねえ…でも…」みたいなね)

 

私も人の子ですから、尻尾を振る犬は可愛いし、上手に助けを求めてくれる人の方が助けたくなる気持ちはわかります。

 

生き抜くためのハックとして、感謝の意思表示を欠かさず、低姿勢で配慮を求めていくということは私自身が実行し、また息子に教えていることでもあります。

当事者の選択肢として実務上間違っていることではない、とは思います。

 

今回の伊是名さんのお話を発端に語られるツイートの中には、支援者や医療関係者などからも同じように「そうすべきなのに」という声がたくさんあったのも目にしました。

現場で交渉するときにはこの方がずっと通りやすいのを私たちは知っているし、実際にそうしている当事者は私も含めてたくさんいらっしゃることと思います。

 

「謙虚でない人間は支援しなくて良い」という価値観と「障害者差別解消法」

しかし、忘れてはならないことがあります。

このハックを声高に提唱することや現場で実行し続けることは、ともすると「そうしない人間は支援しなくても良い」という誤った価値観による線引きを生むことになり得てしまうのです。

 

今回の騒動で私が懸念していることのひとつが、それです。

そしてこれは「そんな価値観は良くない!」という道徳的なお話ではありません。

 

街ゆくみなさんが路上で困っている障害のある方がいて、それを助けるかどうかに関しては、どうぞ善意で判断していただいても構わない、とは私は思います。

避けたければ避ければいい、私人としてその自由は皆さん平等に有していると思います。(この辺り、厳密には法的にどうかが不勉強な部分なので突っ込まれる可能性があろうかとは思いますが)

 

ただ、今回の駅のケースのように、また私が日々直面している教育現場のケースのように「障害者差別解消法」合理的配慮の提供は「国や地方公共団体への義務」と「事業者への努力義務」という形で漏れなく課されています。

 

「謙虚だから助けたい」

人間性に問題があるから助けたくない」

というような、感情で左右されて良いような話を前提とはしていないのです。

 

Twitterの私のTLにも、同じように懸念して、どんな人間性の当事者であっても同じ支援を受ける権利があるのだ、と説いている支援者さん方もいらっしゃいます。私も、そうあるべき話だ、と思います。

 

教育者も、支援者も、駅員も、感情のある人間であることには間違いありません。

しかし、それと、管理者や事業者が業務上課せられている責任を組織として放棄して良い、義務を果たさなくても良い、という話は筋が全く違います。

 

「障害者差別解消法」は対人職に携わる人間全てに関わりのある法律です。

紹介のため過去記事を貼っておきます。

詳細はワード検索していただけたら内閣府の啓蒙リーフレットなど参照できるものがたくさん出てくると思います。

 

障害者差別解消法は、国連の「障害者の権利に関する条約」の締結に向けた国内法制度の整備の一環として、平成25年に公布され、平成28年に施行されました。

私が初めて知ったのは、施行直前の障害児の親の会で開催された勉強会の中でした。

 

長く特別支援教育に携わってこられた講師の先生は「待ちかねていた黒船だ」と表現されていました。

やっと、障害者・児のニーズが現場で通るようになる、個別のニーズに現場が応じてくれるようになる、話し合いのテーブルについてもらえるようになる、と先生はおっしゃり、勉強会の場で、参加した保護者みんなで喜びました。

 

余談ですが、障害者の雇用に関する法律もこの時同時に施行されています。

 

今回の伊是名さんのケースは、障害者差別解消法の合理的配慮の提供義務と、総務省が提唱する合意形成プロセスについての知識がないと理解は難しいと思います。

そのベースがない状態で、自分のそれまでの経験と知識だけで判断してしまっているように見えるご意見が本当にたくさんありました。

 

また、素人ならまだ仕方ないにせよ、教育関係者や支援者など、この法律を知らないわけにはいかないだろうというお立場の方からも同様の声が上がっていて、驚きを隠せません。

 

また後日ブログにまとめますが、次男の高校進学に関しての合理的配慮の話し合いの中でも、窓口となっている支援担当の先生方が「現場ではまだまだ周知が徹底されておらず、自らに義務が課せられていることへの認識が浅い先生方も多くいる」と現場に浸透させる大変さについてお話をされていました。

 

多忙な現場への周知徹底の難しさ

まだまだ周知徹底が足りていないこの法律に関し、私たちが我が子のために丁寧に、時に下手に出ながら申し入れをしていることが、結果的にその認識の浅さを助長させてしまうことになってしまうこともあるんだろうか、と考えることもあります。

 

正解は私にもわかりません。

その場その場でできることをやっていくしかないんだろうとも思います。


勉強会で「黒船だ」と喜んでおられた先生からその後

「保護者サイドからどんどんこの法律を現場に持ち込んでいかないと」

というようなことを言われた記憶があります。

 

当事者が活用しようと意識して動かなければ、現場にこういう法律があるって知ってるよ、って持ちかけていかないと、現場での周知徹底はなかなか自発的には進まないから、と。

 

昨日話題になっていた天声人語の中でも「この20年で現場から亡くなったのは座高測定と蟯虫検査だけ」と触れられていました。

学校現場では人員不足と煩雑な日常業務による多忙が当たり前になっています。

 

今回の件でJR職員の雇用環境について指摘するご意見もありました。

同じようにブラックな環境の事業所や公共団体は他にもたくさんあるでしょう。

 

その余裕のなさのなか、自ら新しい法律の施行について学び、内部を整えていくことが組織として難しいだろうことは私にもわからないわけではありません。

 

しかし、我々はその法に守られるべき当事者のそばで生きているからこそ、せっかく施行されたこの法律が意味をなさないものにならないように、現場で生きて使われるように、忙しさの中で忙殺されてしまわないように、できることをしていく人がいなければならないのかもしれない、とも思うのです。

 

現場の就業環境の改善と、当事者が声を上げるということ

現場の皆さんはただでさえお忙しい。

そこに向けた声を上げるとき、

「もっと忙しくなれ」

とは私は思っていません。

 

先生方の環境も支援者の状況も、駅員さんの負担も、現場で我々やその子たちに対応してくださる方がもっとゆとりのある恵まれた環境で働いていただきたい。

それはその方々のためでもあるし、サービスを受けるこちら側にとっても助かることです。

 

今回の件で「駅のバリアフリー化は進みつつあるのだから個別に言わなくても」というご意見も出ていましたが、筋が違います。


「合理的配慮」は個別のニーズに事業者が対応するものを指します。

「車椅子ならエレベーターがあればいいだろう」は合理的配慮ではありません。

 

合理的配慮は、当事者それぞれのニーズを現場に申し入れることができる、その権利を保障されているところから始まります。

行きたい駅まで電車に乗りたいというのも、この授業を受けたいというのも、保護されるべき当事者の大事な声です。

(ただしそれがその希望の通りに通るかはまた別の話です)

 

その個別のニーズを受けて事業者が実行可能かを十分に検討し、不可能な場合はその理由を丁寧に説明をするプロセスが提唱されています。

(詳しくは上記リンクの過去記事や総務省リーフレット、各自治体などから広報されている資料などをご参照ください)

 

この法律により、ただでさえ多忙な現場にもっと負担が生じてしまうことは否めません。

最大限の実行のための検討や折り合いをつけるための話し合い、実行できない場合の丁寧な理由説明などの義務(または努力義務)を課している法律ですから。

 

でも逆に言えばこれまでは、業務の中で「無理ですね、できません」の一言で断るという障害者差別が容認されてしまっていた、ということでもあります。

 

現場の負担増大の側面に関しては心から、現場環境の改善を求めます。

 

それでも黙っていることはできないから

こんなことをTwitterでつらつらと書いていると、そんな理想論が、とか机上の理論が、とか、現実を見ていない、とか、まぁそんな言葉が飛んできます。

 

ですが、考えてください。

 

その現実を見た上で「お忙しそうだから」と私たちが黙ったら、雇用環境が良くなりますか。

いつまで黙って待てば先生方や駅員さんたちの環境は今より良くなってお話を聞いていただけるようになりますか。

 

「改善されるまで黙っている」ことはできません。

その間にも障害のある子どもたちは成長し、学校に通い、また障害者は街の中で生きているのです。

 

黙って見守れば、その間に犠牲になる当事者が出てしまう。

改善の過程で黙殺されてしまうことも決して許されていいことではないのです。

 

おわりに

今回の伊是名さんのブログ記事を発端にした様々な論争では、色々な論点が複雑に絡み合ってゴチャゴチャになってる感は否めません。

私は彼女の主張ややり方の全てに同調しているわけではありませんし、おそらく私がその手法をとることはそうそうないでしょう。

(三男の不登校から登校再開に至る過程の中でそれに近い場面はあったので、絶対にないとは言い切れません)

 

今回の伊是名さんのブログ記事で書かれている件は障害者差別解消法の合理的配慮についての知識がなければ全体像の把握は難しいのではないか、と思います。

障害のある方は、その人間性や日頃の言動に関わることなくこの法の元に平等に、配慮を受けるための申し入れをする権利が保障されています。

そして、その権利が侵害されたと感じたら、声を上げていい。

その実行可能性を、私たちは潰してはならないと思うのです。

 

また、障害者差別解消法は障害者にのみ関わりのある法律ではありません。

対人職についている方はサービスを提供する側の事業所や団体の一員として提供義務(または努力義務)を負っています。

そして、今は健常者として生きていても将来的にどの段階で障害のある人間として生きていくことになるかは予測がつきません。

 

今、これを読んでいるほぼ全ての方が無関係ではないのです。

 

これをきっかけに一人でも多い方が障害者差別解消法と合理的配慮の提供義務、合理的配慮の提供のための合意形成プロセスについて知ってくださる方が増えることを願って、この長いツイートまとめを終わりたいと思います。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。障害のある家族のそばで生きる一人の人間として、心から感謝します。

ラジオから流れてきた介護のお話が育児とリンクしているなぁと感慨深かった話

今朝次男の軽いパニックに飲み込まれてひとしきり大騒ぎをしたあとのこと。

気を晴らそうと出勤前にワンコを連れてちょっと景色のいい散歩コースまでドライブしていたときにラジオから、ちょっと興味深い話が流れてきました。

 

介護についてのお話のようで「先週は『介護には余裕が必要』というお話を伺いました」とアナウンサーの誘導から。

 

うんうん、育児もそうだよねえ、と運転しながら耳を傾けました。

 

お話をされていたのは理学療法士の方。

認知症介護についてのお話のようでした。

 

介護者に余裕があるかどうかで「天使になるか悪魔になるか」変わってきますね、と話す理学療法士さん。

 

天使や悪魔になるのが介護者なのか介護される側なのかがちょっと聞き取れなかったのですが、育児においても自分の心の余裕があれば子が天使のように可愛いし、余裕がなくなれば悪魔になるよなぁ、そして自分もまた然り…と思ってしまいました。

 

どのように余裕を持つか、というお話が流れていきます。

 

介護をする中で、介護者が困る行動をとる認知症患者さんに直面したときに、医療面から「問題行動だから無くしてしまわなければ」と見られやすい。

 

けれど「異文化」という視点に切り替えて行動を観察したらどうだろう。

 

文化人類学に触れながら、認知症の方の見せる一見問題行動に感じられる行動について、異文化であるという目線で見つめ直してみるようなお話をされる理学療法士さん。

 

自分が当たり前だと思っていることが文化が違えば全く違う側面を持つこともある。その視点切り替えのために自分が進めているのが海外旅行だとお話をされていました。

 

新型コロナウイルスの関係で今は無理だけれど、介護現場の職員を連れてアジア、特にインドへの旅行をすることがあったというお話が続きます。

 

インドでは路上で犬と一緒に寝ている人がたくさんいる。

それを見た職員が「あぁ、廊下で寝ていても何もおかしいこと、ないですよね」と漏らす。

職務としてどうしても「ベッドで寝ましょうね」と促すし、それに応じないと「問題行動である」と捉えがち。

でも「床で寝ても別になんらおかしいことではないんだなぁ」と捉えることで介護者の側に少し心の余裕が生まれる。

 

次のエピソードは牛のおしっこ。

インドでは路上に野良の牛がたくさんいるのだけれど、牛がおしっこをしようとしたところに女性が突然駆け出し、両手でおしっこをすくう。

驚いて見ていたら、女性はそのおしっこを周囲の人にかけ、自分たちにもかけようとしたので慌てて避けた。

ガイドにあれは何かと尋ねたら「牛はヒンドゥー教では信仰の対象なので、そのおしっこをかけることは祝福になるのだ」と説明を受けた。

その文化を知らなければ「おしっこをかける」という問題行動にも見える。

 

このように、文化の違うところへ旅行に出かけると自分の常識が通用しない異文化を身をもって経験することができる。

 

自分たちの常識を疑うこと、一見わけがわからないように見える行動も違う文化があって行われているのだと考えて対応することで自分たちの余裕を持つことができる……

 

短い時間の中で文化相対論や文化人類学レヴィ=ストロースにも触れる、とても興味深いお話でした。

文化相対主義(cultural relativism)とは他者に対して、自己とは異なった存在であることを容認し、自分たちの価値や見解(=自文化)において問われていないことがらを問い直し、他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことをいう。

レヴィ=ストロースも著書『野生の思考』のなかで、自らを洗練されていると見なす西洋文化圏から「未開社会」と見られていた地域でも一定の秩序や構造が見いだせると主張しています。

 

一見問題行動に見えるものが、実は彼らなりの理由ある行動だった、ということは特性のある子たちとの生活の中でも本当によくあることです。

 私も実体験を書いたことがありました。

 

前述の文化相対主義で掲げられている「自己と異なる存在であると容認し、自分たちの価値のみで判断せずに理解と対話を目指す」という姿勢は、特性のある子たちとの暮らしの中でもとても大きな意義を持つものだなぁと思います。

 

ラジオの中では「心の余裕を持つために有効な手段」として触れられていた異文化という視点。

 

もちろん、床で寝られて困ることもあるだろうし、おしっこをかけられるのは困る。

行動を変容してもらわないと困ることが多いから「やっぱり問題行動じゃないか」と言われてしまうかもしれない。

 

でも、自分の価値観を基軸にして「それに反する問題ある行動だから是正すべき」と見るのか、他者にも自己と違う価値が存在しているのだ、というリスペクトを前提にして「しかしここは変容していただいた方がお互いに共存しやすくなるよね」というスタンスで接していくのか。

 

前者と後者で、自己の心の持ち方も、余裕も、相手の心持ちも、かなり大きく違ってくるなぁ、と思ったりするのです。

 

認知症のある方の介護においてどうかはわかりませんが、特性のある子とのやり取りでは…

 

例えば前記のブログ記事の例で言うと

 

「油性ペンでノートを取るのはいけません、やめなさい」

と問題行動と捉えて行動を変えようとするのと

 

「油性ペンの方が書きやすいんだね、でもそうすると机や下に敷いたものが汚れてしまうから良くないね、裏写りしない違うものに変えたらどうかな」

と話すのと。

 

圧倒的に後者の方が話が通りやすい、これは異論が出ることはないんじゃないかと思うくらい。

 

そして、話者の心持ちとしても

「油性ペンを使うなんて問題行動だ!(だからやめさせねば、いうことを聞かせねば)」と思って接するか「油性ペンを使うということは何か理由があるのかな、なんだろう」と思うかで、心の余裕は全く異なってきますね。

 

これ、別に特性のある子に対する話だけではないですねえ。

 

泥遊びなんか汚れるからダメ!と思うか、泥に入ると楽しいよねえ、でも汚れるからこうしようか、って思うか…みたいに、小さい子を育てていても応用できる。

 

価値観の違う配偶者、ママ友さんなど保護者関係、仕事でもそうかなぁ。

違和感を覚える言動、自分ならそうしないと思うような行動、なんでそんなことするんだろうと思えるようなことに出会ったときに自分の価値観だけを軸にして判断してしまいがちだけれど、同じ日本語を話す似たような顔の人類であってもそこに異文化があるのかもしれないなぁと考えることで少し余裕を持って対応することができるような気がします。

 

ラジオの中で理学療法士の方がお話ししていた中で特に興味深かったのは「共生」についてでした。

 

認知症のある方を管理していくのではなくて、共に生きていく、共生していくのが目標。

そのためには困ったときに「これは問題行動だ」とみなして矯正を考える視点ではなく、相手にも相応の文化があるのだと見て接していくことでお互いに良い距離を保ち一緒に生きていけるのではないか、というお話でした。

 

共に生きていくためのリスペクト。

特性のある子たちと暮らして日々の大変さに追われてしまうとつい私から抜け落ちてしまう視点だなぁと、朝から次男と一悶着やってしまった自分の頭をガツンと殴られたよう。

 

まだまだ修行が足りませんなぁ、と思いながら、散り始めた桜を眺めつつわんこと歩いた、そんな朝でした。

医療費の自己負担が始まる前に〜「自立支援医療」の手続き備忘録

次男の高校進学が決まり、わずかばかり同居してくれていた諭吉の群れがあれよあれよと手元を離れてしまっている我が家です。

 

先日のエントリでは高等学校に対する進学準備として合理的配慮の提供を受けるための手順について書きました。(まだ入り口ですが)

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 今回は医療面での準備のことを書いておこうと思います。

 

 

 

お住まいの地域の医療費助成は何歳まで?

お子さんが小さいうちは自治体により医療費の助成制度があるところがほとんどじゃないかな、と思います。

小学校入学まで、小学校在籍まで、中学まで…地域の財政状況によって差があると思いますが、私が住んでいる自治体では中学生までは助成の対象になっているため、15歳になる年の年度末(3月31日)までは医療費を自治体が負担してくれています。

本当にありがたい制度なのですが、残念ながら高校生になる春からは大人と同じ3割負担(これは個人差があると思いますが)に移行してしまいます。

 

この春で助成が切れてしまう前に歯科治療を済ませておいたりしたほうがいい、とママさんたちの間でも話題になっていたりしますね。

 

さて、助成が終わる年齢に達した次男は定期的に通院している精神科の診察やお薬の処方についても大人と同じ負担割合になることになります。

 

その負担を少しでも軽減してくれる国の制度が自立支援医療制度」です。

 

自立支援医療制度とは

自立支援医療制度は、心身の障害を除去・軽減するための医療について、医療費の自己負担額を軽減する公費負担医療制度です。

自立支援医療制度の概要 |厚生労働省

精神科への通院、肢体不自由や視覚障害の方の手術など一部のハンディのある方に対する医療費負担を軽減してくれる制度で、精神科への定期的な通院がある次男はこの対象になるだろうと病院からお話があり、中学卒業と同時に申請が必要だと考えていました。

 

公費負担の額は収入などにより変動があるようですが、精神科通院の場合は医療費の1割負担程度になるケースが多いように聞きました。

 

この制度では通院している精神科1ヶ所と薬局1ヶ所を登録、そこでの診察や処方に対して負担軽減措置が取られます。次男は利用していませんが、デイなどの福祉利用の登録もできるようです。

 

我が家の申請の流れ

右も左もわからなかったので、とりあえず役所の障害福祉に関する課に行ってみました。次男の卒業を控えた2月末だったと思います。

 

窓口の担当の方が申請の流れを教えてくださいました。

 

  1. 医療機関に診断書の作成を依頼する(県の様式あり)
  2. 診断書と印鑑、保険証、マイナンバーに関するものなど必要な物を揃えて再度窓口へ
  3. 窓口で申請書を記入して、診断書を添えて提出
  4. 自治体から県に送って審査
  5. 受給者証を送付

 

という流れになっているようです。

診断書の様式や必要なもの、申請書をどこでどう記入するかなどは自治体により違いがあるかもしれません。

 

申請にかかる時間に要注意…!

医療制度のサポートを受けることができるのは「申請の日から」となっています。

つまり、我が家のケースであれば4月以降の通院の前に申請ができていれば負担額が少なくなる、ということになります。

 

ただ、その通院日に受給者証が届いていない場合はひとまず通常通りの負担割合になる可能性があるようです。

私がネットで見た情報では申請したときに仮の書面が発行されてそれがあれば本式のものが届く前から1割負担になる、と書かれているものもありましたが、病院からは「届くまでは通常の負担割合で、審査に通ったら差額を遡って返金する」と説明を受けました。

役所の窓口で申請したときに仮の書面などは預かっていませんので、届くまではとりあえず3割負担でお支払いをすることになるようです。

(この辺りは地域差や病院による対応の違いがある可能性があるのでネットの情報を当てにせずに直接問い合わせをしたほうが良いと思います)

 

私が次男の申請書を提出したのが3月の初めです。

その前段階として病院に診断書を依頼し、2週間くらいの待ち時間がありました。

 

役所の窓口では「申請してから審査の結果が出て書面が届くまで2〜3ヶ月かかったりすることもある」と言われました。

 

つまり、4月の通院日に確実に間に合わせようと思ったら逆算して4ヶ月程度前の年末ごろから動いておく必要があった、ということだろうと思われます。(受験の方に頭がいっぱいでとてもそんなこと思いつきませんでした…)

 

また、次男は月1回の定期通院をしているので診断書のお願いが電話1本で済み、次回の予約日に間に合わせてもらっての受け取りになりましたが、もし通院期間に開きがあったりして診断書を出してもらうために改めて診察の予約を入れて…ということになると診断書作成までの期間をもっと長く見込む必要が出てくるかもしれません。

 

4月に間に合わせたい!ということであれば

診断書の作成期間+申請から結果が出るまでの期間

を見積もった上で4月から逆算して早めに申請しておくと安心かもしれないですね。


と書きましたが、地域によっては申請は何ヶ月前から、というしばりがあったりするというお話もいただきました。

また、診断書の有効期限がある可能性もあるので一概に早ければ早いほどよいと言えるわけではないかもしれません。


個別の状況の違いもあるかもなので、年末から年明けくらいに役所の窓口で相談しておくと概要がつかめるかもしれないですね。

 

また、まだ先の話ではありますが、この制度は毎年更新、2年に1回の診断書提出が必要になる結構手のかかる制度ではあります。


この申請、向こうから期限が来ますよーというお知らせはどうもなさそうな感じです。

更新時期を忘れないようにして期限前(こちらは3か月前から受付のようです)に更新手続きに来てくださいね、と役所の方からも言われました。


今回は本人が受験を控えていたこともあり私が主導で申請をしましたが、更新の時には次男も一緒に手続きをしに行こうと思っています。

 

おわりに

そういえば今回の申請にあたって次男に「こんな制度があるんだけど、君の名前で申請をしてもいいかな」と話したら「そんなのがあるんだねえ、ありがたいねえ」と安心した様子でした。

今はお薬代もさほど負担は大きくないけれど、今後自分で賄っていくことになったら少しでも負担が少ない方が親としても安心。継続的に医療とお付き合いをしながら自分のメンテをして社会とうまく付き合っていってくれたらなぁと思っています。

 

まだ申請をしたところまでの段階なので今後どんな風に制度を利用していくことになるか全く見当がつかない状態です。

また記録できそうなことがあったら続きを書きましょうね。

次男、高校で合理的配慮の提供を受けるまで① 〜入学前編〜

グーグルさんから「ブログの収益がかなり落ちてるよどうしたの!」ってメールが届いてブログを覗いたら1ヶ月以上更新してなかったことに気づいているスズコですこんにちは。

 

私の2月から3月上旬にかけては、不登校だった三男がじわじわと登校を始めたことの対応に追われながら、本丸は「次男くん初めての高校受験」に尽力する日々。

とてもブログなど書ける場合ではなかったんだなぁと振り返っております。

(ツイートはしてたけど)

 

さてさてそんな慌ただしく落ち着かない時期を経て、我が家の次男坊、無事第一志望の県立高校に合格いたしまして、春から高校生になれることが決まりました。

 

合格と同時に私には進学準備に加えてもうひとつの大仕事が。

受験の前からあちこちと少しずつ相談していた「高校での合理的配慮」について、いよいよ始動することになりました。

 

「合理的配慮とは何か」ということについては過去記事をご参照くださいませね。

suminotiger.hatenadiary.jp

 

個人情報の関係もあるし思春期の子供のことなので書けないことも出てくるかもしれませんが、後続の皆様にとって少しでも参考になればと思うので記憶が新しいうちに書けることを書き残していこうと思います。

 

今回は入学前編です。

 

高校での「合理的配慮」ってどんなもの?

まず大前提として高校における「合理的配慮」とはどういう話なのか、ということを確認しておきましょう。

高等学校における合理的配慮については、平成28年より施行されている障害者差別解消法 第七条「行政機関等における障害を理由とする差別の禁止」で定められています。

2 行政機関等は,その事務又は事業を行うに当たり,障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において,その実施に伴う負担が過重でないときは,障害者の権利利益を侵害することとならないよう,当該障害者の性別,年齢及び障害の状態に応じて,社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない。

次男の進路である県立高校は「行政機関等」に当たるため、合理的配慮の提供は「法的義務」があることになります。(私立高校は商業等その他の事業を行う者に当たるため「努力義務」となり、強制力がやや緩和されています)

 

具体的には、定期考査を別室で受けたり、板書の撮影許可など、それぞれの生徒が抱える困難に応じて必要と思われる配慮を提供する義務がある、ということになります。

 

高等学校の合理的配慮の申請手順(大分県の場合)

次男の受験に当たって、どんな手順になっているのかをネットで検索してみました。

大分県では県教育委員会のサイトに合理的配慮のことが記載されています。

www.pref.oita.jp

リンク先のリーフレットに詳しく記載されていますが、大分県では高等学校の合理的配慮の提供についてマニュアルが定められているようです。

生徒が意思表示をし、申し込み書類を提出、その後学校が教委や中学などと相談しながら提供項目を選定し、提供するかどうか決定するような流れになっています。

さらに提供後は定期的な面談などを通して実施内容の確認や見直しの検討などが行われる仕組みになっているようです。

 

ここまでを読んだ段階で「中学よりはるかに制度が整っている…」とまず感じました。

中学校では「合理的配慮」という言葉を知っている先生の方が少ないくらい。

平成28年からの施行なので次男の中学入学時にはすでに現場に周知が進んでいてもおかしくなかったはずなのですが、なかなか話を通すのが難しかった記憶があります。

 

ただ、このマニュアルだけの内容だと「本人が申請した内容について学校が判断して返答する」と読めるため、上記過去記事で記したような合意形成プロセスに基づいた双方のやりとりが保証されていないのではないか、とちょっと不安に思っていました。

 

入学説明会で尋ねてみました

先日、入学説明会に参加してきてきました。

 

説明会の始まる前に受付にいた職員の方に

「合理的配慮の提供をお願いしたいと考えているのでご相談をしたいのですが、どうしたらいいですか?」

と尋ねたら

「終了後に事務室でお話伺いますからそちらへどうぞ」

とサラッとお返事がいただけました。

 

教職員に対する周知がある程度整っているのだろうな、という印象です。(中学だとここでキョトンという顔をされるのが予想できる程度の周知なので…)

 

説明会会場の指定された席には入学に際して必要な情報がぎっしり詰まった冊子や書類がたくさん。

入学式に提出しなければならないらしいたくさんの書類の束の中に「合理的配慮の提供について」という文書が入っていました。

 

その書面には、合理的配慮の説明とが書かれており、提供の希望や提供に向けての相談を希望する方は下部を切り取って必要事項を記載して入学式の日に提出を、と書かれていました。

 

(入学式に提出して間に合うのか…)

とその時は正直言って思いました。

中学でも入学前に小学校との連携があっていたし、入学前に対応について学校に出向いてお話をさせていただいていたので、入学式の文書提出からで果たして彼の高校生活は大丈夫なのか…!と一気に不安になりました。

 

入学説明会の中では様々な説明の中で合理的配慮について説明する時間が取られ、必要な方は書類の提出を、また詳しく話したい方はこのあと事務室へ、というお知らせがありました。

 

いざ、事務室

説明会を終え解散、次男と2人、広い校舎の中をどこを歩いていいのかわからずフラフラし、大きな高校生が教室の中にひしめいている光景に恐れおののき小さくなりながらなんとか事務室までたどり着きました。

 

事務室を覗いて「入学予定者ですが合理的配慮についてのご相談に伺いました」と伝えると担当の先生が出てきてくださり、別室へ通されました。

 

対応してくださったのは生徒のメンタル面をサポートする大元の先生で、ほかにスクールカウンセラーや特別支援コーディネーターなど複数の担当者がいらっしゃるとのことでした。

 

ご挨拶をしてから尋ねられたことに次男と私がそれぞれ答えていきます。

まだ中学からなんの引き継ぎもない状態なので高校サイドの情報はゼロの様子。

次男の診断名や特性の様子、小中で受けて来た支援の内容などをお話ししました。

 

「担当する先生方と共有しなければいけませんから」とゆっくり丁寧にメモをとってくださる様子に、右も左も分からないような状態の先生に対して話をして来た小中の頃とは違う安心感がありました。

 

お話を伺った内容を簡単にまとめると…

  • 合理的配慮の申請があった生徒について、校内でチーム対応する
  • 次男は通級に通った経験があるので診断書の提出は不要だと思われる
  • 発達検査も校内で実施可能(支援学校から派遣がある)
  • 発達検査の結果や聞き取りなどから本人に必要な配慮について面談を重ねて検討する
  • 1学期の間に検査や面談、会議を重ね、配慮を試してみて、本人に必要な支援を固めていく
  • 定期的に支援が生きているかの検討を重ねる
  • 本人とはスクールカウンセラーと特別支援コーディネーターがこまめに相談の機会を持って学校生活をサポートする

という感じでした。

在校生ですでに合理的配慮を受けている生徒さんもおられるようで、手順もしっかりと整っている様子でした。

 

とりあえずは今日のお話を教職員で共有した上で、入学式に書類を提出していただいてから改めて対応をしてくださる、というお話をして、学校を後にしました。

 

おわりに

学校とゆっくりお話ができて、とりあえずいまの段階でできることは一旦終了かなぁという感じです。

あとはこれから、本来の入学準備に取り掛かることになります。

書類の山と格闘せねば…

 

入学式に書類を提出した後の流れについては、また追って記録していこうと思います。

大同電鍋がやってきたので書きたいことを書きたいだけ書くよ。

前回チラッと書いたんですが、悩みに悩んだ末に我が家に大道電鍋がやってきました。

 

リンクを貼れるのが6合のものしかなかったのですが、私が購入したのは10合のもの。

10合のものは売り切れているようです。人気だねえ。

 

どちらにしようか悩みましたが、家族も多いし大きい方にしましたが、結果的には正解だったと思います。

 

電鍋ってなに?

台湾からやってきた電鍋ですが、1950年代くらいから日本で作られていたものと同じ仕組みの家電です。

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1955年

▽国産初自動式電気釜発売
従来のものは手動式電気釜であった。
炊飯が終了すると自動でスイッチが切れることから、
自動式電気釜と呼ばれた。
内釜の外にも水を入れるのが特長で
三重釜と呼ばれた。

炊飯器の歴史│炊飯器でおいしいごはん│家電製品・機器情報│家電機器│製品分野別情報│JEMA 一般社団法人日本電機工業会

私たちの親世代は見覚えのあるやつじゃないかなぁと思います。

台湾で今もスタンダードなのは上記と同じ保温ができないタイプですが、日本向けに売られているのは自動で保温に切り替える機能がついているものです。

 

水を入れた外釜を加熱することで内釜全体を鍋ごと蒸しあげて加熱する仕組みです。

外釜に入れが水がなくなったら自動的に加熱スイッチが切れます。

入れる水の量を調節することで加熱時間を調整することができる仕組みですが、気温や中に入れるものの量によってスイッチが切れるまでの時間はかなりマチマチです。

この曖昧さを許容できるかどうか、というのが電鍋に馴染むかどうかのカギになるかもしれません。

デジタル表示で残り時間がわかる、なんていう便利な仕組みではないので、スイッチがいつ切れるかは今のところやってみないとわかりません。

途中で鍋のふたを開けることはできるし、スイッチを自分できることはできるので、自分で微調整しながら使う家電、という感じです。

 

電鍋でできること

楽天市場の大同電鍋のサイトでは「炊く・煮る・蒸す・温める」ができると書かれています。

 

外釜に入れる容器としては付属のステンレス製内釜はもちろんですが、耐熱性のある容器が色々使えます。

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この画像は下で煮物、上で茶碗蒸しを作ったときのものです。

下はニトリの取っ手が取れる鍋シリーズ「TORERU」の20cm鍋

着脱ハンドル鍋フライパン6点セット(TORERU)通販 | ニトリネット【公式】 家具・インテリア通販

上はHARIOの耐熱ガラス製保存容器の大

 をそれぞれ使用しています。

 

外釜の内径は27cm弱なので、蒸気が上がる隙間を見越したら付属内鍋と同じ24cm程度の容器まで使用可能だと思います(上に行くほど内径が広い作りにはなっています)

 

取っ手の取れる系のフライパンや鍋なら加熱にも耐えるし加工をしているので付属の内鍋より洗いやすい。ティファールパール金属を使っているフォロワーさんもいらっしゃるようですが、私は地元で手に入りやすく安価なニトリの商品を重宝してます。

ニトリで購入した耐熱ガラスの長方形保存容器も蒸し物に便利に使ってます)

 

画像の中で私がやっているようにお箸を渡して上に別容器を乗せたり、長方形の容器をずらして重ねたり、盆ザルなどを利用して重ねたり、セイロを使ったり、重ね方はアイデア次第でどんどん広がります。

 

そういう、創意工夫の可能性が無限大なのも電鍋の魅力のひとつかもしれないなぁと思います。次はどんな風にやってみようかな、って考えるだけでワクワクするんですよね。

 

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この画像は私の思いつきでやった「パン・ド・ヴィアンド」に挑戦したときのもの。

正式なレシピはこちら

note.com

インスタでお友達が作っているのを見てレシピ検索したら「これは電鍋でもいけるのでは…!」と思いついて試してみました。

使っているフライパンは上記のTORERUの20cmのもの。

 

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水分が抜けにくいのかな、ふわっとした仕上がりで子どもたちにも好評でした。

煮込みハンバーグと同じ味と食感のものが手軽に出来上がる感じかな。

 

私は素焼きのハンバーグのカリッとした焼き目が好きなので、タネを一部分けておいてオーブンで別に焼いて頂いたのだけれど、数ある調理手段の中で電鍋にできないのはこの「カリッと焼き目をつける」という部分くらいかもしれないなぁと思います。

 

目も手も離せる!

ちなみにこの日はパン・ド・ヴィアンドの下で別の煮物をセットして放置して、別の調理や他の家事をしている間に勝手に出来上がってくれていました。

 

直火ではないので加熱しすぎて焦がしてしまったりすることもなく、完全に目を離してしまえるのも電鍋の大きな魅力のひとつだと思います。

 

先日も2段調理をセットしてその間に犬の散歩へ。

 

この日の加熱中は鍋の蓋がカタカタなる音がかなりして、留守番をしていた子どもがちょっとびっくりしたようでした。

カップ半分くらいの時だと全くカタカタならないこともあるようで、水の量が多いとカタカタが大きかったり時間が長かったりする感じ?その辺の曖昧さも電鍋の可愛いところです。

 

外釜の水分がなくなったらスイッチが自動的に切れます。

スイッチを入れる時に保温のスイッチをオンにしておけばそのあと自動的に保温に切り替わり、オフにしておけばそのまま通電せずに放置する形になります。

 

お昼休みに自宅に戻って晩ご飯の煮物を保温なしでセットして、帰ったらまた外釜に水を足して温め直して食卓へ、なんてこともできてしまいます。

 

作る料理に合わせてどちらにするか選べるのも便利ですし、カレーのように焦げやすいものでも保温中に焦げ付くこともなく安心しておいておけるのも魅力ですね。

(説明書のは「保温は3時間程度まで」と書かれていますのでそこは要注意)

 

私はまだ挑戦してませんが、保温機能を使えばサラダチキンのような低温調理も多分できます!

 

お手入れも簡単なのです、うふふ

なんかもう大同電鍋のダイマみたいになってきてしまいましたが、最後に気になるでしょう、お手入れのこと。

 

説明書には外釜は電源部分に水がかからないようにすれば水洗いOKと書かれているのですが、私は怖くてまだそれはやったことがありません…。

 

台湾で売られているものは電源コードがマグネット式で外れるタイプのようなのですが、日本国内で流通しているのはコードが外れないタイプ。

コンセントから抜いてシンクに引っ張っていって…という手間を考えたらちょっとめんどくさいし、なんか怖いし、というわけで、お手入れは基本的に使用後の拭き上げのみです。

 

煮汁や蒸し汁が外釜に落ちない限りは水しか使っていないので汚れはあまりつきにくいのではないかと思います。

内鍋を出してまだ熱が残る外釜内をキッチンペーパーでくるーっと拭けばそれだけでキレイに。もう一手間かけたいときはアルコール入りのウェットティッシュで拭き上げています。(ブログに書いたことがあるか記憶があやふやですが我が家はノー布巾ノー雑巾生活なので基本的にキッチンペーパーとウェットティッシュですべてまかなっています)

 

一度だけ、おでんを長い時間煮込んだ時に外釜に汚れがついてしまったことがありました。

 

直後に拭き上げましたが汚れが取れなかったので、まだ熱のある外釜にカップ半分くらいの水とクエン酸を入れて蓋をしてしばらく放置。

冷めたころにキッチンペーパーで拭き上げたら元通りピカピカになりました!(画像撮っとけばよかった!)

焦げを作ったらクエン酸百均のお掃除用ので十分取れましたよ〜〜。

 

 

おわりに

いいところ便利なところを書き並べたら終わりが見えない電鍋ですが、そろそろ記事をおわりにしましょうか。

 

電鍋を注文してから手元に届くまでのやく2週間ほどの間、「あぁ今ここに電鍋があったら使えるのに!」と何度も思いました。

 

そして手元に届いてからの約1週間、欠かすことなく毎日何かしらの調理に電鍋を使っています。

 

電鍋の一番大きな特徴は「わざわざ使ってない」ことなんですよね。

調理家電を買ったら「それを使うためのメニューを考えて、結局飽きる」というのが私の過去に何度もあったんですよね。

 

肉まんを蒸してみるとか、ルーロー飯を作るとか、電鍋が来たらやろう!と思っていた調理はもちろんあるんですが、基本的にはそれまでと変わらず毎日調理していたものと変わらない料理ばかりを作っている感じです。

 

ぶっちゃけて言うと「電鍋でないとできないこと」って多分ないんですよね。

コンロと電子レンジとオーブンがあれば出来上がる料理と同じものを、電鍋を使ってやってる感じ。蒸し物も電鍋ならおいしくできるけど蒸し器使えば同じことできるし、同じくらい美味しくできる。

 

でも、そういう色々使いこなしてあたふたする時間を全部取っ払って「セットして放置」ができちゃうのが電鍋の何よりの魅力なんだろうな、と思うのです。

 

電鍋きてから本当にご飯作るの楽になったよ!

手抜きしてるはずなのに美味しいものがちゃんと出来上がるから家族にも好評。

これまで電子レンジで作ってた茶碗蒸しも「全然違う!すごく美味しい!」って子どもたちが大喜びしてくれて、母ちゃん感激です。

 

あれもこれもやってみたいな、と思わせてくれる電鍋。

今日は午後からお洗濯大会の予定なのだけど、その合間にジャガイモと卵を一緒に蒸して晩ごはんのポテトサラダ調理に挑戦してみようかな、と企んでいるところです。

またツイッターで報告するね、ではでは!

産後「夫にこうしてほしい」と思うときそれが「私になって」ではないかはよく検討した方がいいという話

先日、ずっと気になっていた「大同電鍋」をついに購入いたしまして、さてその紹介記事でも書こうかしら、と思っていたところで何気無く呟いたツイートに「ブログに書いて」とリクエストをいただきましたので、今日はそのことについて書こうと思います。

 

「泣いたら抱っこする母親と諸々確認して放置の父親」の話とTwitterの反応

数日前にTwitterでバズってたツイートなんですけれども、私はこんな感想を書いてました。

 

このツイート主さんの過去のツイートが色々アレだったこともあるらしく、また内容に関しても賛否を読んでいろんな方が言及されてました。

 

「泣いたら抱っこ」というのを肯定する声もたくさんあり、その中でふと目に留まったのが、赤ん坊が泣いたら自分と同じように抱っこして欲しいんだ、という母親目線の主張でした。

 

気持ちはわかる、けれど思うこと

長男が生まれてすぐに泊りに行った夫の実家でのこと。

やっと寝た長男を夫に任せてお風呂に入っていたら聞こえてきた泣き声。

夫も義父母もいるから誰かが…と思っていたのにしばらく泣き止まず、我慢しきれず風呂から飛び出し、髪を拭く間も無く長男のいる客間にダッシュして抱っこ。こいつらに二度と任せるか!とムキーーーーー!っとなったあの日を思い出したりもしました。

 

そんな自分の経験があるからこそ、思うことがあるのです。

それが、今日の最初のツイートでした。

 

産後の「ガルガル期」に陥りがちな「私になって」という願望

自分で書いていてとても胃がキリキリするような話なのですが、産後のメンタルが不安定になりやすい時期、夫に対して「こうしてほしい!」と強く思うことが色々とあった記憶があります。

 

泣いている赤ん坊を抱っこせねばならない!という自分の中に湧いてくる感覚のように、母親(ここで母と限定していいのかどうかはわかりません)の「直感としてそうしたほうがいいと感じること」「本能的にそうしたくなること」という感覚に支配される感じがあったような気がするんですね。

 

これは産後だけでなく、妊娠中に突然人に触られるのが嫌になったり、身の回りの片付けをしたくなったり(妊娠中に読んだ本に「巣ごもり期」と書かれていた記憶があります)というような、エビデンスに基づいた知見ではなく、本能という言葉がふさわしい野生的な感覚が湧き出てくるような、そんな経験がありました。

 

その、湧いてきた本能的な欲求に突き動かされるような側面がありつつの産前産後の自分にとって、目の前の夫が同じ感覚で動いていないように見えることが時に大きなストレスになっていたような気がしています。(そういうエントリもかなり書いてきましたねえ)

 

当時を振り返って、あの頃の私が夫に求めていた、求めようとしていたことは「エビデンスに基づいた正しい育児をしてほしい」という冷静で論理的な要求というよりは、「私と同じやり方をして安心させてほしい」「私のやり方が良いのだからそれに従ってほしい」という、「私になって」だったような気がするのです。

 

そして、夫にそれを突きつけることで夫婦間のすれ違いが起こりやすかったことは、このブログでも何度も書いてきたことだと思います。

 

ガルガルな私と、一歩引いて冷静な夫

当時の私を夫は「育児ノイローゼってこんな感じなのかなと思ってた」と振り返ります。

私は私で精一杯頑張ってきたと思うけれど、ときに子供に寄り添いすぎたり心配しすぎて判断を誤りかけることも。

そんなときにガルガルした私を冷静な言葉で落ち着かせてくれて、本当に子供のためになるのはどんな判断かを一緒に考えてきてくれたのが父親である夫でした。

 

子供たちが全員思春期に入った我が家、私は産後のガルガル期をとっくに抜けているはずなのですが、それでもやっぱり子供のこととなると冷静ではいられなくなることもしばしば。

 

何かを判断したりするときには夫と情報を共有し、彼の視点からの意見を聞いていますし、いまだに「あぁ自分は不安に駆られて冷静でなかったな」と思わされることも。

 

客観的な情報をもとに行動を見直してみる

ここまで読んでみて非常に穏やかで平和な家庭のように思われるかもしれませんが、いやいや夫婦間で意見が合わないことも、その態度はひどい!と私が怒ることもしょっちゅうあります。

 

夫が表出した言葉や態度が自分のよしとするものと違ってくることは日常茶飯事。

 

その中でこれは放置しては子のためによくない、と思うときは指摘して話をする場を持つことが多いです。

思春期の子に対して夫が取る態度が子供を傷つけたり頑なにしたりする様子を察知して夫に指摘する、そんな場面が最近は多いかな。

 

私が夫の言動の是正を求めるとき、「私が正しく標準である」というスタンスを私がとってしまったら、話はうまくいきません。

 

専門家の知見や主治医の助言、書籍で得た知識や先輩の経験談、科学的なエビデンス、それらある種客観的な判断基準を頭に並べながら、夫(と自分)の言動について整理する。

こういう理由があるから改善した方がお互いのために良いと思う、ということだけ話をするようにしています。

 

もちろん夫から私のよくないところを指摘されることもあり、その時も同じようにどう改善した方が良いのかを上記のような客観的な情報をもとに考えようと心がけてはいます。

 

違う脳みそを持った違う人間だから

言葉にすると至極当たり前のことなのだけれど、夫婦として暮らしているとつい疎かにしてしまいがちだなぁと思うのです。「私とあなたは別の人間」ということを。

 

自分が何かに邁進しているときに同じ速さで並走してくれたら、同じ感覚でフォローしてくれたら。

その溶け合うような感覚はきっととても心地よくて、弱っているときは特にそれを求めてしまいたくなるものなのかもしれない。

 

でも、もともと他人で、たまたま縁あって一緒に暮らしているだけの、違う脳みそと違う体を持った全く別の人間なのだから、考え方も子に対するスタンスも、違っていて当然なんですよね。

 

よく「両親が同じスタンスでいないと子供は混乱する」と言うけれど、我が家の子供たちはかなり小さい頃から私と夫それぞれに対して「父ちゃんはこうだから」「母ちゃんはこうだから」とさっぱり割り切っているような気がします。

 

違う人間なのだから価値判断基準が同じなわけないんですよね。

それぞれに考えがある、というのも、それに基づいて行動しているというのも、どちらも至極当たり前のことなんだろうな、と思っています。

 

それは子供たちに対しても同じ。

私の子とはいえ、別の人格を持つ別の人間。

でも母親として彼らに接していたら我が子のこととなるととても冷静ではいられなくなることも当然ある。

そんなときに、自分とは違うスタンスで家庭にいる存在として夫に助けられたことは一度や二度ではありません。

 

最初に紹介したツイートの元のお話は賛否もあるけれど、あの「夫婦で話をしてお互いの違いを面白いと思って互いの行動を見直していく」という姿勢そのものはとても興味深いと私は思いました。

 

私が「私になって」を夫に求めないことが夫婦間の安定の大きな鍵でもありましたし、また夫が自分とは違うスタンスで子供と暮らしてくれているのもまた、私にとっての救いとなっているという、そんなお話でした。

 

おまけ

夫婦間のスタンスの違いについて書かれた本があり産後に読んだ記憶があります。

リンクを貼ろうと今見たら2014年発売になっているけど読んだのもっと前のような…記憶があやふやです。

おぼろげな記憶ですが、類人猿の研究をもとに「母子密着で育つ子供が親離れをしようとするときに子供から母親を引き剥がすのが父親の役目」という、そんな内容だったなぁと覚えています。(不正確で申し訳ない)

この論そのものや本全体に対して全面的に賛同するわけではないのですが、面白い視点だなと思ったのは覚えています。

 

本棚のどこかにはあると思うけれどさっと見つからず再読もできていないままのため、この程度の記述にとどめますが、まぁご参考までに。

 

 

 

 

 

 

 

「何度言ったら」に対しての「伝え方が悪い」はちょっと詰むかもよ、って話。

「今年はブログをこまめに」と言っておきながら全然書けてませんね、相変わらずですね。

 

さて今日はツイッターで流れてきたお話から。

 

元は夫婦関係についてのツイートで、久しぶりに料理する夫に向かって妻が「前にも言ったけど」という前置きで間違いを指摘し、その言い方は傷つくからやめてほしいと言われているような、そんなお話でした。

 

多分そこから起こってると思うんだけど、今朝はいろんな方が「前にも言ったけど」やそこから想起されたと思われる「何回も言ったのに」「何度いえばわかるの」という前置きが言われる側からはとてもしんどく、かつ効果のないものいいであることをツイートされていて、ウンウンそうだよねえ、と思いながら拝見しました。

 

ダイレクトに「その言い方は良くない」と書かれている方もいらっしゃった。

すごい気持ちわかります。我が家の、特別支援を必要とする発達ゆっくりさんがもし学校で先生からそう言われたら「先生その言い方じゃまずいです」と言うと思います。少なくとも支援する立場の人間が使ったらダメな言葉ですね。支援者が発したら「言い方を変えるべき」と強いメッセージを送りたいやつです。

 

ただ、難しいのはそれが、支援者と要支援者の間だけで交わされるやり取りではない時ですね。

 

親子間だと微妙ですね、夫婦間だとまず対等を考えねばなりません。

職場の同僚とのやりとりだったら…

 

関係性によっては「伝え方が悪い」だと関係そのものが破綻しかねないな、とは思うんですね。

 

というわけで、じゃあどうしたらいいのか、を考えてみようと思います。

 

「前に言ったけど(のに)」「何度言ったら」を狩ってみる。

ごくシンプルに「前に言ったけど(のに)」「何度言ったら」などの言われた側が傷つく可能性のある言葉を狩ってしまえば、という解決策がまず浮かぶかもしれません。

 

この解決策は「つい言ってしまうけど漠然とよくないと思っている」人に対しては一定の効果を持つでしょう。

ネット上でこれは良くないよと発信がたくさんあればそれを見て我が身を振り返り、使わないように気をつける方が出るかもしれませんし、それにより救われる方もいるかもしれません。

 

ただし、あくまでも前述のような自覚のある人に対する対策に過ぎません。

そうでないけど言ってしまう人にとっては、自分には何の非もないのに言葉狩りに巻き込まれたようにしか感じないでしょう。効果のある対策ではないし、むしろ悪化させる可能性を心配します。

 

言ってしまう人は何を抱えているのか

なぜ悪化させる可能性があるのでしょうか。

ここで、軽く言っている人から何度も何度も繰り返した結果我慢できない怒りを抱えている人までその程度は様々だ、ということをまず前提として共有せねばなりません。

 

一般化して語るのはちょっと難しいですが、怒りを覚えて何度もそう言う方のことを考えてみようと思います。

 

「何度も言ってるんだけど」と相手が怒っているように見えるとき、そこには「何度も言わされている自分」に対する報われなさがあるのではないか、と思うのですね。

ここで「言わされている」という言葉を使うと言われる側からは「言ってるの自分じゃん」となるんじゃないかな、と思います。ええ、私も面と向かってそう言われたらそう思うと思いますが、あえて相手の視点に立って考えていきます。

 

何度も同じことを伝えているのに相手が意志通りに動いてくれていない、と怒りを覚えるとき、残念ながらその本人には「伝え方がどうか」という視点はないと思います。

 

自分の発信する方法が相手に適していない、という視点はない。

状況が変わらないのは相手がその言葉に応じて行動を変化させないからだ、というものの見方です。

 

あまり耳障りの良くない言葉で表現すると

「自分は変わらない、お前が変われ」

というスタンスです。

 

「伝え方が悪い」という視点が抱えているもの

では、ここで立場を切り替えて言われる側について考えてみましょうか。

何度も同じことを言われて辛い、頑張ろうと思ってるけれどうまくできなくて辛いのに追い打ちをかけられて苦しい、という心理がありますよね。

私自身も何度も経験がありますし、うちの子たちも直面してるしんどいやつです。

 

そして何より私が我が子に対しての伝え方次第で言動が変わることに日々直面しています。

言い方を少し工夫すればすんなり受け入れられる、ということ、本当によくあるんですよね。学校の先生や支援の立場にいる方も日々経験されていることじゃないかなと思います。

 

ただ、正直なことをいうとその工夫は「簡単で誰にでもできるもの」ではないのも事実です。

発達障害のある子を育てる親として、本を読んだり先輩から教わったり、愚痴を聞いてもらって自分の気持ちを整理したり、いろんな努力を重ねながらやっと頑張ってやっていることでもあります。

そして、驕りに聞こえるかもしれませんが私自身の素養も少なからずその助けになっているとも思います。苦手な人は本当に苦手だろうなと思うんですね。

 

そんな、親でもちょっとめんどくさいハードルの高さがある伝え方の切り替えについて、言われる側から「伝え方が悪い」と言われたらどんな風に見えるだろう、とちょっと考えてみたいのです。

 

ちょっと前章の最後に戻って読み直してみてもらえたらな、と思います。

 

これ、頑なになったらあちら側と同じ

「自分は変わらない、お前が変われ」

というスタンスと同じに、なりかねない危うさがありませんか。

 

「何度言わせるの」にも「伝え方が悪い」にも秘められた、折り合えなさ

この件についてのツイッターでの発言の中で私はあえて

「伝え方が悪い」

ではなく

「伝え方が受け取り手に適していない」

という言葉を使いました。

 

根っこにあるのは誰が悪いか何が悪いか、ではなく「方法が適していない」というマッチングの問題です。

 

「前にも言ったけど」という表現そのものが悪なわけでは実はありません。

「あぁ前にも言われていたのか、じゃあより気をつけよう」と受け取る人もおそらくは存在するわけです。(それが多数か少数かは私にはわかりませんがいないとは言い切れないですね)

 

「前にも言ったけど」という表現が適さない人間も存在する、というのもまた、事実です。

 

そのマッチングの問題ありきなのに、双方相手の非を責める方向にシフトするとどこまで位っても平行線で、折り合うところは見つけられないだろうなと思います。

 

折り合えない相手もいる

もちろん、相手がモラハラっぽい人だったりすると折り合う以前の問題で「逃げて身を守れ」と解決法を取る必要があることもあるでしょう。

ここら辺はケースバイケースだと思います。

 

このブログでも何度も書いてきましたが、相手と折り合おうと思ったらまず自分が折り合う姿勢を見せなければ始まらない。

ファイティングポーズを取っていたら向こうも身を守るためにそうしますから。

 

自分がその姿勢を見せてもそれでも向こうがファイティングポーズを崩さないなら、折り合うのは無理。「逃げて身を守れ」という助言をするしかないだろうなと思います。

 

みんなそれぞれに苦手の多い人間ばかりかもしれない

発達障害のある次男と暮らしながら、自分も特性ありきで人に支えてもらっての生活。

ハンディのある人間としては「やってもらえたら助かること」はたくさんあります。

でも、息子に対しても自分への戒めとしても、支援者以外の人に対して「やってもらえて当たり前」と思ってしまうと相手から傲慢に見られてこじれてしまうことも出てきてしまうなぁと思っています。

 

そのさじ加減は本当に難しい。

 

やって欲しいことを、相手が察してやってくれたらとても楽。

でもそんなにうまくいく関係ばかりではないから、こちらの特性や性格やメンタルの都合から「こうしてもらえたら助かる」を伝えていくことも大切。

 

相手がプロの支援者相手じゃないなら(まぁプロの支援者も様々だけど)生身の人間として得手不得手があるのもまた、ある意味当たり前のことだったりするわけで。

 

苦手が多い人間としてつい相手に大きを求めたくなったりもするけれど、所詮自分と変わんない苦手の多い人間の一人かもしれないし、という視点は持ってて損はないかなぁと思ったりしています。

 

その上で「苦手がある人間同士、うまくいかないときもあるよね」って関係性の存続を諦めることもまた、一つの解決策かもしれないとも思ったりはしています。

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