スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

【教員の年度途中での産休】に保護者が言及する問題について考える。

相変わらずブログを放置しているスズコです、こんにちは。

 

今朝Twitterを眺めていたら #教師のバトン タグのとあるツイートを目にしました。

(燃やしたいわけではないのであえて引用はしないでおきます)

 

大まかな内容としては「先生産休に入らないよね?」と保護者から言われることについて。保護者批判的な内容も含むのでそれ以上には触れませんが、何年も何十年も温存されているこの問題について「いまだに保護者のせいにして終わられてしまうのか」という残念な気持ちがあるので、掘り下げて考えてみようと思います。

 

 

「そんなことを言っちゃう」保護者という存在

女性教員が産休に入ることで保護者からクレームが入る、というのは今に始まった話ではありません。

遡れば私たちが子供の頃からあったと思いますし、私が小学校の保護者になった12年前にも見聞きすることのあるものでした。

 

この歴史の古い問題について紐解くとき、まず前提として考える必要があるのが「そんなことを口に出しちゃう保護者」という問題です。

私が目にしたツイートの教員の方が想定して語っておられるのはおそらくそういうケースだと思います。

 

女性教員の妊娠出産について迂闊に言及すると「女性教員には産む権利はない」「我が子たちのために私生活を犠牲にして滅私奉公せよ」という、非常に前時代的でかつ差別的な思想を含む主張と受け取られかねない危うさがあります。

表出した言葉だけを受け取れば、私が見たツイートの先生のように「自分には子供を産む権利はないということか」と言われた先生が憤ってしまうのも仕方ないと思います。

 

だからこそ、私たちはそうそう口にはしないのです。

だからこそ、「そういう保護者」だけがうっかり口に出してしまうのです。

 

そして「一部の心無い保護者が無茶なことを言う」という話として現場で共有されてしまい、水面下に潜む大きな課題が放置されたままになっているのではないか、と思うのです。

 

水面下に潜む大きな「仕組みの問題」

では、水面下にどんな問題が潜んでいるか、について考えていきましょう。

小学生の保護者をしたことのある方、特にハンディのある子や繊細で周りの影響を受けやすい子を育てたことのある親御さんにとって「担任」という存在による影響が非常に大きい、というのはご理解いただけるのではないかと思います。

 

私も4人の子を育てながら、毎年の人事異動や担任発表をハラハラしながら見守ってきました。「誰が担任になるのか」でうちの子たちのその一年にかなり大きな影響を受けるからです。

 

子供たちにとって学級担任というのは学校という環境の中で影響を受ける要因としてとても大きな存在です。

これは、小>中>高と年齢が低いほど大きい傾向にあります。

 

小さい子ほど身近にいる大人に影響をより受けやすい、という年齢の問題がひとつ。

 

そして、年齢が上がるごと、進学するごとに教職員の配置は手厚くなる傾向にあり、副担任の存在や教科担任制など「一人の教員」の影響が薄れやすいというのもひとつだと考えます。(この辺りのことは次男の高校進学のことを書いたときにかなり言及しましたが、入学式のときにひとクラスに関わる教職員の多さに圧倒され、小中学校との違いを痛感しました)

 

担任が交替することによるリスクについてはずっと昔から保護者の中には懸念としてあったと思います。

 

それでも大きな問題になってこなかったのは、我々の幼い頃は保護者がそこまで学校のことに介入すべきでないという価値観があったことも影響としては大きいかもしれませんし、何よりもかつてはそれなりに校内で対応できていたというのもあると思います。

 

私たちが小学生だった頃の教員の在り方と今のそれは、誰の目から見ても明らかにブラック化しているといえるからです。

 

そこに、もっとも大きな課題がさらに潜んでいると私は見ます。

それが「担任が年度途中に変わるリスク」に対応できない、という仕組みの問題です。

 

「担任交替」に対応しきれない学校の現状

学級にいる子たちの中には「誰が担任になるか」の影響をほぼ受けない子ように見える子から、担任交替で不登校まっしぐらになり得る過敏な子まで多様ですが、年齢が低いほどそれぞれの子たちに交替の影響は色濃く出ます。

 

そしてそれをクラス全体という枠で考えたとき、担任が年度途中で変わることによりクラスの雰囲気全体が大きく影響を受けることにつながりやすいのです。

 

そして、その子供たちにとっての大きな変化に柔軟に流動的に対応できるほどの人材の余裕が、今の学校、特に公立の小学校にはありません。

 

産休に入る先生の代わりを見つけるのも大変と言われるような状況の中で、やっと見つかって入った先生のクラスが学級崩壊、というのも近年珍しい話ではありません。

また、そうやって崩壊しそうな状況にある学級に担任外の教員やサポート役が手厚く介入して問題を未然に防ぐのもとても難しい。

 

柔軟に対応できる管理職がいたら何とか成り立つ程度で、そんな「デキる」管理職がいたとしても人員不足に対応するのはかなり難しく、そしてその皺寄せが現場の教員に寄ってしまっているのが現状だと思います。

 

私が小学生の保護者になった12年前から今日までの間だけでも、副担任がつかない学級が増え、ここ数年は小規模校では担任を持たない教員がほぼいない状態が続いています。

担任一人の負担はより増え、イレギュラーな状況に対応する人員に乏しい状態が続いているのが現状です。

 

矛先を保護者に向けられることの弊害

私はTwitterで噴き上がる教員の保護者批判を見かけるたびに仕組みの不備について言及してきました。

保護者と教員が対立関係になることを避けたいからです。

そこが対立してしまったら苦しむのは狭間にいる子供たちだからです。

 

今回目にした担任交替に関する課題でも同じことが言えると思うのです。

 

現状の学校、特に公立の小中学校では担任一人にかかる責任がとても大きく、学級に与える影響も大きすぎるほどに大きい。

安定している学級の担任が変わっただけで学級崩壊まっしぐらになるケースを私が見てきたのは我が子のクラスだけではなく複数あります。

 

このような惨状において「子供の学級担任が交替する」というのは保護者にとっては大きな問題です。

もちろん、妊娠出産の権利を侵害することは誰にもできないし、おめでたいことを祝福し受け入れるのが筋だとわかっています。

だからこそ、学校に向けて簡単に口にすることは避ける保護者がほとんどだと思います。

 

しかし、ツイートされている先生方のように「矛先を保護者に」で留まってしまうことを私は懸念しています。

表面上の対立を産み、そして水面下にある根本的な仕組みの問題から目を逸らすことができるようになってしまうからです。

 

職員室の中で特定のクレーマー保護者が無茶なことを言ってくるよね、という話にしておけば管理職にとっては、さらに上のお役所にとっては、国にとっては、水面下に潜んでいる大きな問題で現場の不満が噴き上がるのを先延ばしにすることができてしまいます。

 

皺寄せは弱い方へ、弱い方へ

「一部の心無い保護者のせい」で教員が大変な目に遭っており、そういう人たちが改心し行動をあらためてくれたら済む、という話になってしまっていることが今の学校現場にはたくさんあります。

 

しかし、実際にはそれぞれの問題について学校内部、また公教育全体の仕組みの問題は大きく、保護者がおとなしくなれば改善するような小手先の課題ではないものばかりです。

 

しかし、水面下の課題を放置したまま教員と保護者の間に対立構造ができてしまう。

そしてそこで一番の被害に遭うのは、はざまにいる子供たちに他ならないのです。

 

保護者は教員の資質や在り方のせいだと断じ、教員は常識のない保護者のせいだと嘆く。

仕組みの問題はいつまでもそのままそこに放置され、どんどん悪化の一途を辿り、教室の中でより弱い子たちに皺寄せがいく。

私が小学校の保護者として学校とやりとりをしてきた12年間で、どんどんこの傾向は強まっていっているように感じています。

 

おわりに

長くなりましたが、そろそろまとめましょう。

 

年度途中での担任交替で学級に大きな影響を与えてしまうような教育制度の仕組みがある、というのがまず古くから日本の公教育の課題のひとつ。

 

その担任交替により学級への影響を最小限に防いだり、トラブルが起こったりしたときに校内でそれなりに対応してきた経緯があったと思われるが、近年の教員不足によりその対応に割ける人員が極端に減っているのが現状で、その傾向は年々顕著に、悪化傾向にあると思われる。

 

この、過去から温存されてきている2段階の課題がまずあること。

そして、多くの保護者はその問題を感じていないわけではないけれど、近年の人権意識の高まりにより言及することは憚られるため、ごく一部の「言っちゃう」保護者が目立つこと。

それにより、公教育の大きな課題であるこの問題が「理解のないクレーマー保護者により無茶を言われる事案」と受け取られやすいこと。

 

そうやって保護者と教員の間に不要な対立構造を生み出すことで子供達にその皺寄せがいくこと、また子供の中でもより弱い方弱い方へと皺寄せがいってしまうこと。

 

また、学校の中でもより立場の弱い先生方のところに皺寄せがいってしまうこと。

 

理想を持って現場に臨まれたのに、数年で心を病み現場を去る先生、長く教員を続けてこられた現場主義のベテランなのに管理職との間で苦しんで早期退職してしまう先生…私の周りでも学校の在り方に苦しみ現場を去っていく先生は年々増えています。

 

また、Twitterでは保護者批判を繰り返す教員アカウントも多く目にします。

 

変えなければならないものはもっと違うところにあるはずなのに、改善しなくてはならないことはもっと他の場所にあるのに、矛先は私たち保護者ではないはずなのに。

 

いつももどかしい気持ちで、どうか対立を避けてほしい、どうか先生方の環境がもっとよいものに、これからの先生方が保護者を恨まずに済むような環境に恵まれるように…と願い続けています。

たくさんの助言から見えてきた、ダイエットの秘訣みたいなもののこと。

ごきげんよう皆様。またまた久しぶりにブログを書いております。

 

今回は昨日のツイートからあれこれ考えたこと。

 

昨日、こんなツイートをしました。

 

持病のあるオットが定期的な受診から帰宅後に「いよいよダイエットしなさいと叱られた」とこぼしたのがツイートのきっかけ。

何をしたらとあれこれ言っているオットを眺め「何回目だろう、今回は続くんだろか」と腹の中で思いつつ、たまにはたくさんいらっしゃるフォロワー数を利用してみてもいいんじゃなかろうか、と思い立ったのが上記のツイートでした。

 

思った以上の反応をいただき、だいぶ頑張ってお返事やいいねを押したりしてたんですが途中から通知欄がパンクしたので見落としはかなりあろうかと思います。

1000を超えるリプライや引用RTをいただいていて、ダイエット情報の集合知みたいになっているので気になる方はどうぞご覧になってくださいませね。

 

あ、一応書いておきますがオットのダイエットに関する私のスタンスはこんな感じです。

 

私がよくツイートでも使う「水飲み場馬理論」(馬を引いて水飲み場に連れて行くことはできるけれど、水を飲ませることはできない=本人の意思ややる気がなければ周りにはどうしようもない)はオットに対しても同じです。

どんなに私が働きかけようと本人がやろうと思わなければ徒労に終わるだけなので、基本的には私はオットのダイエットに関しても「具体的にヘルプを出されたら助けるし、具体的な指示があれば協力はするけれどこちらから積極的に動くことはしない」という線を引いて観察しております。

 

今回のツイートに関しても、ツイートしとけば(たまに私のツイートを見てる)オットの目に止まるだろうというその程度の動機でありました。

思った以上にたくさんお返事をいただけたので、オットに話してリンクを送ってあげました。ヒマヒマに眺めていることでしょう。リプライくださった皆様、ありがとうございます。

 

さてさて前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入ります。

 

リプライの中には名前のあるダイエット法やその手法を紹介する先生のお名前、著書、特定の食べ物や各種運動などいろんなハックが詰まっておりました。

たくさん並ぶそれを眺めながら、ふと、気づいたことがありました。

 

「効果があった」と書かれているもののほとんどは、長いスパンでそれを続けて結果が出たものばかりだったんですね。

いや、当たり前っちゃあ当たり前ですよね。

私が「無茶なやつじゃないくて」という条件でお願いしているし、何より単発で挑んで即結果が出るようなダイエット法やお薬、怪しくて怖いもんね。

 

オットと一緒にたくさんのリプライを眺めながら

「この中であなたが続けられそうなものがある?」

とたずねました。

そだねえ、これかなぁとか話しながら、あぁここだなぁ、とふと気づいたんですね。

 

たくさん並んだダイエット方法の中で「どれが効果があるか」ではないんじゃないかな、と。

 

大事なのは

「どれなら自分が続けられるか」

なのだろうなと。

 

たくさん頂いたリプライは

「これならみんなが続けられて効果があるもの」

ではなく

「これだったら自分は続けられたもの」

という、個人の経験の集合体だったのではないかな、と思うのです。

 

リプライのダイエット法の中には、私がダイエット目的ではなく日々やっていることもいくつかありました。

歩くことや食事に関することですが、私は標準に近い体型でダイエットや体型維持を意識はしておらず、それらの習慣は犬を飼っているから、とか、昼食の時間が取りづらいから、とか生活上のやむを得ない事情の中で苦にならないから続けられているに過ぎないようなものです。

 

この「苦にならないから続けられる」というのが重要なポイントなんだろうな、と思うのです。

 

「痩せるために己を追い詰めて苦になることを続ける」のがダイエットの在り方だとつい考えてしまいがちな気がするのだけど、実際に続けられているダイエット成功者の中で、そのストイックさで乗り越えている人の割合はそう多くないのではないかと。

(こんなことを言うと「私は苦になることを頑張っているのに!」と怒られそうではありますが)

 

助言の中には「何か1つだけを続けることを意識したらいいよ」というものもありました。

確かに欲張って色々やってみようとするより、自分が続けられそうなことを1つだけコツコツと続けることの方がずっと持続可能性があり、結果につながりそうな気がします。

 

そしてここでもやっぱり、やってて苦しいことをやるんじゃなくて「自分が苦にならずに続けられること、続けられるやり方」というのが鍵になるんだろうなと思います。

 

 

これ、子育てをしててもよく直面することだなぁと思ったりしました。

宿題が苦手な次男くんにとって「ただ取り組む」ことはやっぱり苦しくて長続きしない。

他にも投薬や書類の整理の仕方など、生活上の課題の多い彼にとって「この方法なら苦にならずに続けられる」を見つけられたときはおおむねうまくやれてきたような気がします。

 

大事なのは方法に自分を合わせるのではなく、自分に合った方法を見つけること。

 

育児でも収納でも勉強法でも、なんでも共通する秘訣みたいなものかもしれませんねえ。

 

 

フォロワさんに教えてもらったステッパー、タイムセールでびっくりの安さになってたからかなり迷ったけどオットが続けられるかどうか微妙だったので今回は保留。

母の日になると思い出す夫の発言のこと。

母の日を迎えると毎年思い出すことがある。

 

もうすぐ成人する長男が生まれて最初の母の日を迎えた時だったと思う。

まだ1歳にならない長男と夫と三人で過ごしたその日。

 

なんのアクションもなかった夫にほんのり不満を抱いた私は

「(長男)がまだ小さいからこういうときって父親が代わりに何かやったりするんじゃないの?」

と問うた。

 

夫の返答はこんなだった。

「あなたは俺の母親ではないから俺がなにかするのは筋が違うと思う。(長男)が大きくなって何かやりたいと思ったら、そのときにすればいいんじゃないの」

 

なるほど確かにそうだと思う気持ち半分、なんだか寂しいなぁと思う気持ち半分。

私が「お母さん」になってから初めての母の日は、そんなちょっと複雑な思いを抱いた日になった。

 

1ヶ月後の父の日には「(長男)が大きくなったら何かやってくれるかもしれないねえ」と私からは何もせず。

やり返したような形になってしまって大人気なかったような、でもそれでよかったような、やっぱりちょっと複雑な思いが芽生える日になったりもした。

 

 

先日の母の日は私にとって17回目の「母」として迎える母の日であったわけだけれど、まぁそうやって儀礼的な「母の日(父の日)のイベント」を意識しなかった我が家にとってはいつもの日曜日とさほど変わらない日で。

一緒にコンビニに行った娘が「母の日だから」とおこづかいでおやつを買ってくれたり、実家の母のご機嫌伺いに行ったり、とその程度。

 

この我が家のスタンスが正解なのかどうかは私にはまだしっくりくる答えが出ていなくて、子供たちにとっては「ちゃんとした母の日(父の日)の催し」を習慣づけてあげたほうがいいんじゃないか、というモヤっとしたものが頭のどこかに残っているような気がしていて、多分そのモヤモヤが、この日を迎えるたびに夫の言葉を思い出すことにつながっているような気がしていて。

 

整理したくてぐるぐると考える。

「母の日」という特定の日に感謝されないことは不満なんだろうか。

いや、今の私はとりあえずはそこに不満はない。

なんでだろう。

 

浮かんだのは、夫の日頃の言動で。

 

うちの夫、どっぷり九州男児の義父が君臨する家で育ったこともあり、家事育児を熱心にやるタイプではなく子供たちが小さいうちはそれで揉めることも多々。

でも、ことあるごとに私にねぎらいの言葉をかけてくれる。

冗談めいて言うことも多いのだけど、でもそうやって「私の負担をわかってくれている」という安心が今の私と夫の間に確かにある。

 

そしてその「わかってくれている」という信頼のようなものを私は私の4人の子供たちにも感じているような気がしている。

まぁ毎日はっきり言われるわけではないから、あくまでも日々の言動の中でそんな気がするだけだけれど。

 

あぁ、だから別に、特別な一日に特別な「ありがとう」を形にしてくれる必要が私の中にはないのだなぁ、と。

 

そして、あの母の日の特別な「ありがとう」は、「わかっているよ」のサインとして機能しているんだろうなぁ、とも。

 

毎日の暮らしの中で感じてはいても言い切れていない「ありがとう」「あなたの負担をわかっているよ」「あなたの頑張りに支えられていることを意識しているよ」という、「わかっているよ」のサイン。

 

労われた側にとっても「わかってもらえてるんだな」と確認できるサイン。

 

日頃の関係性の中で伝え合えばそれでいいのか、特別な日にサインとして伝えられたらそれで十分なのか、どっちもあったほうがいいのか、どれが正解なのかは私が答えを出せることではないのだろうなぁとは思う。

 

共同生活を送っているメンバーとの関係を良好に保つためには、やってくれていることにフリーライドしているように見えるより、感謝しているように見えるほうが良い。それは多分間違いない。

 

でも、日々その「あなたの負担をわかっている、感謝している」というメッセージを絶えず送り続けるのは大変だし、こちらが十分にやれているかを日々確認するのもお互いに煩わしかろう。

 

そういう意味では、「〜〜の日」という特別な一日を利用して普段伝えきれない「わかっている」「感謝している」を伝えるメリットは大きかろうなぁと思う。

 

発達特性があって相手にそれを伝えるのがなかなかに難しい民はこういうチャンスを存分に利用したほうがメリットが大きいような気がする。

 

「母の日」「父の日」「敬老の日」…この手のやつを「とりあえず儀礼通りにきっちりやる」を習慣づけておいたほうが将来的なメリットが大きいお子さん、というのが我が家にも確実に1人いる。

周りの人がさりげなくやっている感謝の言動を見聞きして覚えることが難しかったり、余裕がなくて日々伝えるのが難しかったり…

 

もう遅いかもしれないけどちょっと意識してみたほうがいいかもしれない、遅いかなぁ…

 

でもこういういわゆる「儀礼的な感謝」を「わかってほしい」側から求めるアクションがエスカレートすると悪名高い「二分の一成人式」とかにたどり着いていくのかもしれない。

 

「わかっているよ」のサインを伝える手段として役立ててはほしいけれど、こちらから圧力として押し付けたくはない。

さじ加減の難しさを感じながら、娘が買ってくれたおやつを眺めてちょっとニヤニヤしたりする、そんな昼下がりです。

東洋経済の『「ほめる教育」で自己肯定感は高まらない衝撃事実』に関して

今朝、Twitterのタイムラインに流れてきたこの東洋経済の記事。

news.yahoo.co.jp

寝起きで一読してどこからどう突っ込んでいのか頭を抱えるような内容だったこと、またこのタイトルや要旨から「やっぱり叱らないと」って鵜呑みにして勘違いする「叱りたい大人」による子供たちへの被害が出ることを懸念して、きちんと批判したいと思います。

 

 

因果関係が定かではない

まず冒頭で「ほめて育てる」ということが言われ始めた時期とその後の意識調査の結果を紐付けする形で、その結果を理由に「ほめて育てても自己肯定感は低い」と結論づけています。(該当部分を画像で引用します)

 

f:id:suminotiger:20220316110004p:plain

 

著者は年代をもとに因果関係を語っています。

「ほめて育てる」ことが推奨される風潮になったのは確かにその年代からですが、引用している2014年と2017年の統計は、家庭や学校で「自己肯定感を伸ばせるよう、不適切な叱り方を制限し適切にほめながら育てる」という推奨されるようなあり方が周知徹底されていることを確認した上での調査ではないと思われるため、これら統計結果が「ほめて育てた結果」と導けるような因果関係があるとは言えません。

 

私は1990年台に小中高と過ごしてきた世代ですが、自分の頃を振り返っても、またその後2000年台に出産して園から小中高と我が子を育ててくる過程のなかで自分が受けた教育や目にしてきた指導環境が「ほめて育てる」「自己肯定感を伸ばす」という前提でおこなわれてきたような実感はありません。

 

年々良くなってきているようにも見えません。

社会的に保護者に求めるハードルはどんどん高くなり、精神的にも経済的にも余裕のない家庭も増えていますし、学校の先生方の就労環境も年々悪化しているように見えます。

自己肯定感が低くならないよう、と色々な意識を持たれて適切な対応を心がける保護者の方や先生方は増えている印象はありますが、現場全体がそうなっているとはとても思えず、むしろ子供たちを取り巻く環境は悪化の一途を辿っているように見えます。

 

これら統計結果を「ほめて育てることを徹底的にやったところで、自己肯定感はまったく高まっておらず」とほめて育てることがさも徹底されているように描くのは現状に則しておらず、因果関係を示せているとは言えず、根拠として不適切です。

 

小学校での暴力事案増加との因果関係について

筆者は続けて、小学校での暴力事案の増加について言及しています。

f:id:suminotiger:20220316114627p:plain

 

このような事案は私も実際に子供たちの学校で経験したことのあるものです。

 

f:id:suminotiger:20220316114727p:plain

f:id:suminotiger:20220316114901p:plain

 

 

現場を見たり、我が子が関わるケースとして対応をしてきた経験からはこの見立ては全く逆だと感じています。

 

ストレスフルな教室の中で衝動に駆られて不適切な対応をしてしまう子供たちは確かにいます。しかし、多くの場合、その子たちがその行動を起こしてしまったのにはそれに至るたくさんのトラブルや子供たち、また教職員を含む大人とのディスコミュニケーションの積み重ねによる信頼関係の欠如があります。

 

学校で荒れていたように見える子供たちが落ち着いていったケースを実子を含めて複数知っていますが、どのケースも大人が子供たちの話を軽んじることなくしっかりと聞き、信頼関係の構築に努めた上での改善ばかりです。

 

家庭と学校が連携して子供から大人への信頼を取り戻し、少しずつ感情のコントロールができることをほめながら導いた結果、その成果が出た子供たちが安定した予後を送っています。

10数年の小学校保護者としての経験の中で、厳しく接することで子供の状況が改善したケースを、私はひとつも知りません。

 

また、子供たちと教員のディスコミュニケーションに関しても、読み聞かせボランティアなどを含めて学校に多く入る中で児童のコミュニケーション能力欠如だけが問題だとは思えません。

近年、学級だよりなどのおたよりの文章でも誤字脱字だけでなく一読しても内容の整合が取れていない文章を書かれる先生方も増えていますし、保護者としてやりとりをしていても会話が成り立たない先生も各校に何人もおられるような状況を肌で感じています。

 

教員と児童のディスコミュニケーションの要因を児童の生い立ちにだけ求めるのは無理があると言わざるを得ない現状が今の公立小中学校にはあると思います。

 

「小1プロブレム」の課題の誤認

筆者は次に、ネットでもよく話題になる「小1プロブレム」について言及しています。

 

f:id:suminotiger:20220316131744p:plain

f:id:suminotiger:20220316131744p:plain

 

授業中にじっとして居られないなどの行動が見られる児童の場合、発達障害の特性がある可能性も含めて対処する必要があると思われますが、今回の記事の中にはそれに関する言及は見られません。

 

また、特性ゆえの衝動のコントロールなどに関しては「厳しく躾けてどうにかなるものではない」というのは教育に携わる方にとってはもはや一般常識レベルの知識だと思います。そのような平易なことに関して専門外の方に「厳しくすれば良い」と誤認をさせるような表記により現場の教員や他の保護者に間違った知識を与えようとすることは非常に危険です。

 

教室で落ち着いて過ごせない児童に対しては、その子の行動がどこから起こっているかを丁寧にアセスメントしながらスモールステップで良い行動を強化していく指導が必要です。

 

保護者が幼少期から療育と関わりながら家庭内や園で適切な対応をしながら育ててきたお子さんが、小学校入学後に教員の不適切な厳しい指導により精神的不調になるケースは毎年複数の学校で見聞きします。

 

教室での課題のある子たちに対して学校が「ほおっておくしかない」となること自体がおかしいのです。教室で取り組めることはたくさんありますし、教員の相談窓口もありますし、支援学校や相談支援員の巡回を依頼して現場を見た上での助言をもらい現場に活かしたケースも知っています。

 

これは子供たちの問題ではありません。

適切な対応ができていないのは、学校の課題です。

 

「叱られてショックを受ける子供たち」という誤解

次は、叱られたショックで不登校になった児童の話に触れられています。

 

f:id:suminotiger:20220316132832p:plain

 

私の周りでも、教員の不適切な対応を受けて不登校になった児童生徒を知っています。

例として挙げられているケースで「そこに居合わせたおとなしい子」にまで影響がいっていることを非常に軽視されていることに保護者として驚きを隠せません。

当該の児童のみならずその場にいた子がショックを受けるような教員の態度、一体どんなものだったのでしょうか。

 

子供たちが不適切な行動をしたとして、その場にいた大人、話を聞いた大人として適切な指導をする必要はあります。しかしそれは、声を荒げて威圧的な態度を取ることとイコールではないはずです。

親身になった指導の中で熱がこもることはあるでしょう。

しかし子供たちは感情的に怒鳴り散らすことと、自分のことを理解しようと努めながら語調が強くなることとの区別くらいつきます。後者で当事者やその場にいた他の子が強いショックを受けるような事態にはなり得ないのではないでしょうか。

 

担任が変わって教室が変容したケースの誤解

また、その後に子供たちの不満について触れられています。

f:id:suminotiger:20220316133444p:plain

 

うちの子たちの小学校でそっくり同じようなケースに遭遇したことが複数回あります。

同じように高学年の教室が大荒れした翌年度、担任が変わったら驚くように教室の雰囲気が変わりました。

 

それぞれの子供たちに何が変わったのかを聞いたら口を揃えて言ったのは

「先生が話をちゃんと聞いてくれる」

ということでした。

 

5年生の先生は揉め事があっても「自分たちでなんとかして」と放置されたり、特定の児童の話だけを聞いて他方の話を聞かずに一方的な指導で終わったりしていた、今の先生はちゃんと話を聞いてくれる、と。

うちの子たちのクラスでは揉め事の対応だけでなく、「悪いことをしている子に先生がちゃんと対応している」「それによりその子が悪いことをしなくなっていっている」という安心感も教室の安定に大きく寄与していたようでした。

 

例として書かれているような「ちゃんと叱ってくれる」というのは「ちゃんと話を聞いてくれる」と同義だと私は思います。

 

「叱るかどうか」ではなく、児童の方を向いて信頼関係を築こうと意識してくれる先生の在り方が子供たちを変えたのだと思います。

 

「厳しくするポーズ」による弊害

次に触れられている新聞の読者投稿欄の「なぜ先生は叱ってくれないの?」という14歳の中学生の投稿には前段に通ずるものがあるように見えて、実は大きな弊害を孕んでいます。

f:id:suminotiger:20220316134200p:plain

問題行動があり周囲に影響を与えている児童生徒を野放しにしているように見えることは周囲の子供たちにもよくない影響を与えます。

 

f:id:suminotiger:20220316135137p:plain

 

このように周囲の子供たちに不信感を持たせます。

これは「当該児童生徒に適切に対応しない」という大人への不信感なのですが、これを大人の側が「こういう子たちのためにもちゃんと叱らないといけない」と誤認する可能性が懸念されます。

 

私の観測範囲内ではこのようなケースで周囲の子たちの目を過度に意識して厳しい態度を取るポーズを見せることはあまりよくない結果を生むことが多いように思います。

「良くない子は罰せられるべき」という誤学習をさせてしまう可能性を秘めているからです。ASD傾向のある子供たちにとって最悪の誤学習です。

保護者や教員を長くやっていれば「自分が嫌だと思うことを先生に言えばキツく叱ってもらえる」という誤学習をした子供に出会ったことがある方も多いのではないでしょうか。

この誤学習の刷り込み直しは本当に大変なものです。

大人になるまで引きずってしまっている方を思い浮かべる方もおられるのではないかと思います。

自分の感情と問題行動を起こす子の課題は切り分けて捉えねばならない、ということがうまく整理されなくなって当事者を長く苦しめるので、周りの子のために厳しく接する、というのはASD傾向の子を持つ保護者としてはお願いだからやめてくれという対応で、このような記事をもとに肯定的に捉えて実践される方がおられないよう願うばかりです。

 

「叱らない」は「事勿れ」ではない

f:id:suminotiger:20220316134926p:plain

子供たちの自己肯定感を保つための接し方について真面目に取り組んだことがある人なら、この一説に違和感を覚えることだろうと思います。

 

スモールステップでほめながら適切な行動を強化していく育て方は、その場その場で叱ることの何倍も何十倍も時間も手もかかることだからです。

不適切な行動が出ないように環境調整をし、良い行動をつぶさに言葉にしてフィードバックしていくより、不適切な行動が出るまで何もせずに出たときに大きな声で叱る方がずっと楽です。

 

「叱られたら心が折れない」という内容について

f:id:suminotiger:20220316135827p:plain

心が折れる」というお話に関しては「レジリエンス」について学んだことのある方なら「叱られたことがないと頑張れない子になる」というのは筋違いだということがお分かりかと思います。

子どもたちは自分たちを信頼してくれる大人の中で安心して失敗しながら成長していき、その過程でしなやかな心を育んでいくのだと私は思います。

逆にその安心感がない状況での失敗で傷ついた心はそう簡単には癒えません。そうやって学校で傷ついて苦しみ、児童精神科のお世話になっている子供たちが日本中にたくさんいるのもまた、事実なのです。

 

f:id:suminotiger:20220316140737p:plain

繰り返しになりますが、衝動のコントロールは叱られればできるようになるものではありません。

また、思うようにならない環境の中でも適応しながら生き抜いていくためにはそれに耐えられるだけの余裕あるメンタルの強さが必要で、それは厳しく叱られることで身につくものではありません。

我々大人の中にも、幼少期の厳しい躾の弊害によって失敗を恐れ、自分にも他人にも厳しくあろうとして崩壊していく人がたくさんいるではないですか。

 

また、子供たちが疑問を抱いているのは「叱らずにほめてばかりの大人の姿勢」ではありません。自分たちの方を向いて理解しようとしてくれない大人の姿勢に疑問を抱いているのではないかと私は思います。

 

おわりに

全文を通して同意できる内容でなく、またこの記事を根拠に不適切な対応をする大人の存在によって被害にある児童生徒が一人でも出てほしくないという気持ちから長い内容のエントリを書かせていただきました。

 

私は子供に対して「叱るべきでない」と言うつもりはありません。

うちの子たちも私が叱らない大人だとは思っていないだろうとは思います。

 

また「ほめる育児」「ほめる教育」を実践していると表明しながら指導すべきことをせず危険な場面でも放置しているように見える保護者や教員がこの世に存在しないと言うつもりもありません。

 

ただ、今回の記事に書かれているような主張に関しては真っ向から批判の声をあげます。弊害がとても大きいからです。

 

私が最初に子供と児童精神科を受診したとき、先生から言われたのは

「声を荒らげて怒っていいのは3つだけ」でした。

 

「自分を傷つける・他人を傷つける・ものを壊す」

 

この3つです。

これを目にしたら声をあげてストップをかけるのが大人の仕事。

それ以外のことは、キツく叱るのではなく問題の根幹を見据えて落ち着いて指導していくことだと注意を受けました。

また、上記の3つに関しても大きな声を出していいのはあくまでも止めるためであって、強い語調で長く叱るのはNGと指導を受け、これまでガミガミ言いすぎていたことを痛感して反省したのを覚えています。

 

叱ることは根気強く指導するよりずっと手っ取り早くて、楽なことだと私は思います。

 

筆者が最後に書いている「高学年〜中学生」という思春期の入り口から真っ只中の子供たちにとって自分の話を丁寧に聞くことなく叱る大人に対して信頼がおけるとは思えませんし、彼らは信頼しない大人の話は一切取り入れません。ご自分の思春期の頃を考えたら、みなさんそんなものだったんじゃないかなぁと思うのだけれど。

 

過去をふりかえって思い出に残る良い先生というのは「叱る」とか「ほめる」という上っ面の行動で評価するものではなく、自分たちの方を見て理解しようと努めてくれた、信頼関係を築けた相手だったのではないでしょうか。

 

最後に、うちの子が経験した印象深いエピソードを書いて終わろうと思います。

 

娘が5年生のころ、当時教室はかなり荒れていました。

担任の先生は子供同士のトラブルを訴え出た子たちに「もう高学年なんだから自分たちで話し合って」と言ったそうです。

 

それを聞いた娘は「話を聞いてもらえないとがっかりして、それ以来頼るのをやめた」と話していました。

 

今年、当時の娘と同じ5年生になっている三男。

昨年度は教室が大荒れし、本人も長い間登校できずにいましたが、担任が変わって担任の先生との信頼関係がうまく保て、今は毎日楽しく学校に通っています。

 

そんな彼が先日「〜君とちょっと揉めてね、先生に話したら『もう高学年なんだから自分たちで話し合ってごらん』って言ったんだ」と言うのです。

同じ言葉を言われたことのある娘の表情が一瞬曇ったのが目に入りました。

 

ところが、三男はこう続けたのです。

「確かにそうだよな〜と思ってさ、僕も自分で話をしにいってみたんだよ。もしうまくいかなかったら先生に相談すればいいかなぁと思って」

 

あぁ、これが娘の担任の与えきれなかったものなんだな、と思ったんですよね。

表面に出た言葉は全く同じでも、子供たちが受け取るメッセージは全く違う。

 

「叱る」「ほめる」というのも、表面に出てくる言葉の問題ではないのだろうと思うのです。

 

いかに子供たちと信頼関係を築けているかが大事で、今回紹介した記事にあるような子供たちの声はどれも「叱らないから」ではなく、大人としての真摯な態度を大切にしていない大人のあり方が生んでいる声だと思うのです。

 

この記事を鵜呑みにして「叱るべき」とベクトルを向けるのではなく、目の前の子供の方を向いて大人として信頼されるべき行動を心がけるところから取り組んでもらえたら、と思うと同時に、それを叶えるだけの安定した余裕ある就労環境を確保してあげてほしい、学校の話をするといつも結局、そこにたどり着いてしまいます。

 

おわりに、今話題になっている村中先生の本、おいときます。

「叱りたい」大人たちに、改めて自分の課題として考えてほしいテーマですね。

『動画でおぼえちゃうドリル 笑えるひらがな』 親子で楽しいお勉強のススメ

本のレビューブログを1日に2本も書くとか私頑張りすぎちゃうかと思う今日このごろ。

 

2冊目はこちらの、小さいお子さん向けひらがなドリルです。

8ミリくらいの厚さで、中の紙はお子さんが自分で鉛筆で書けるよう鉛筆の滑りのいい紙が使われています。

 

とりあえず動画見ろ

著者の立石美津子さん、この本では「ひらがな指導のカリスマ」という肩書きを使われていますが、発達障害界隈では「テキトー母さん」のお名前や書籍の方がよく目にされているかもしれません。

私、お名前で検索したら出てくると思うんですが手をお腹の前で重ねた紺色のワンピースを着ている立石さんの写真しか存じ上げなかったので、届いて最初に表紙のはっちゃけた様子を見、また動画のハイテンションな立石さんのお姿を見てしばし脳がフリーズしてしまいました…それくらい、印象つよつよです…

 

この印象つよつよで踊り狂いながらひらがなの書き方を教える派手なおばさんに子どもたちが食い付かないわけないよね…って感じです。

 

大事だなと思った「おうちの方へのお願い」

開いてまずいいなと思ったのが、説明のなかの「おうちの方へのお願い」というページです。

 

字がうまくなる三か条として

 

1、正しい鉛筆の持ち方をマスターさせる

2、赤ペンで添削しない。

3、「きれいに書きなさい」と言わない。

 

という3つの項目が書かれています。

 

この3つ、私も硬筆を教えるときに気をつけていることです。

 

1はもちろん大事ですが、2と3は親がついやってしまいがちなことじゃないでしょうか。

ダメな例として赤ペンでバツをたくさん書かれた添削例の画像が載っています。

添削をしたり消しゴムで消して書き直しをさせたりせず、本人の書いた文字の中で一番良い文字を思いきり褒めることを勧められています。

 

また、「きれいに」「ていねいに」「ちゃんと」のような曖昧な言葉を使わず、具体的な言葉で伝えることを勧められています。どんな言葉を使えば子供たちが理解しやすいかを実際に動画で見ることができるので、子供の理解だけでなく大人の対応の仕方を学ぶ意味でも役に立てられるんじゃないかなぁと思います。

 

「ただしいしせい」や「えんぴつのもちかた」図解

次にいいなぁと思ったのは、ページを大きく割いて描かれている「字を書く時の正しい姿勢」と「鉛筆の持ち方」のイラストですね。

 

説明ページには漢字が多用されているのに対して、この図解の部分は子供が自分で見られるよう、ひらがなで書かれているのもポイントだろうなと思います。

 

子供が自分で正しい姿勢が取れているかをスマホで撮影したり鏡に写したりするのもいいんじゃないかな、と思いました。

 

50音順でなく覚えやすさの順に

もくじに書かれていますが、46種類のひらがなをあいうえお順ではなく書きやすさを基準にして7つのグループに分けて紹介されています。

 

最も簡単なグループの最初の1文字は「し」

一番難しいグループは「や」「ゆ」「す」「せ」「む」「を」の6文字。

 

最終グループはなるほど確かに子供に文字を教えるときに間違いやすい文字だなぁと思いました。

 

1ページに1文字、のわかりやすさ

ドリルとしての構成は1文字1ページ。

①最初に動画を見る

②(動画に出てくる)魔法の言葉を言いながら書く

③白抜きされたひらがなをなぞる

④マス目に自分で書く

というステップになっています。

 

最後のページには46文字すべてがまとまったページがあり、コピーして何度も練習できるようになっています。

 

おわりに

うちの子たちが小さい頃、どうやってひらがなを教えてきたのか私も記憶が大変に曖昧です。

入学前に書けるようになってた子もいれば、入学してからもかなり怪しいひらがなを書いてた子もいたような気がします。

 

今、小学校高学年から高校生までのそれぞれの学習を見ていると「字をきれいに書ける」というのはやっぱりメリットは大きいなぁと感じています。

もちろん書字の障害など本人の頑張りだけではどうにもならないものもありますが、このドリルで紹介されている動画のように本人が楽しみながら綺麗な字の書き方を、座り方や鉛筆の持ち方も含めて覚えておけるというのは入学前のお子さんにとって大きな力になるだろうなと思います。

 

次男の入学前にこんな本に出会っていたら、楽しくひらがなを覚えられたのかなぁ…とちょっと切ない気持ちになったりもしました。

(次男くん、ずっと字が下手くそだと言われ続けてきたんですが最近高校でも「お前こんな字書けるんか…」って先生に驚かれたようで、まぁどこで頑張り期が訪れるかはわからんもんです)

 

最初に紹介した3か条は、ひらがなの習得のためだけでなく子供の学習をサポートする上での保護者の鉄則とも言えるものだなぁと思います。

これを自分に叩き込むためだけにこの本を手に取っても損はないんじゃないかと思うほど、幼少期から思春期に至るまで子供たちの学びに並走する保護者としての大事なポイントになってくると思います。

 

また、小学校に上がってから始まる宿題の習慣に向けて、自分から机に向かいやすい環境作りの導入としても役立つんじゃないかなと思います。

 

自分で正しい姿勢を意識して机につく

→自分で動画を見て書く

→うまくいったところを褒めてもらう

 

書きながら「幼少期にこれやっとけばよかったなぁ」と胃がキュウっとなりました…

うまくやれずに小中高と手こずってきた私の屍を乗り越えて、楽しくお勉強する習慣づけに役立てていただければと思います…(それでもうまくいかなかったら無理せず見守ってあげてね、次男くんみたいにゆっくりゆっくりでもそれなりにどうにかなっていくから!)

 

せっかくのドリル、私の手元にだけ置いておくのはもったいないので、コロナ禍が落ち着いて親の会がまた再開できたら小さい子のいる保護者さんにプレゼントしようと思っています。

「ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に勉強するための本」を読んでみました。

先日、TwitterのTLに流れてきて「これは次男に必要なエッセンスが詰まっているのでは…!」と光の速さでポチった本が手元に届いたので、早速読んでみました。

著者は、自身も発達障害当事者であり、ご自身の経験をもとに鬱や発達障害による離職からの復帰を支援する活動をされている安田祐輔氏。

 

低偏差値から国際基督教大学に合格した実績をお持ちだとのことで、勉強に臨むためのノウハウが詰まっている一冊になっているようです。

 

本書の対象となっているのは学生ではなく社会人のようです。

シリーズ(検索したら6冊同じようなタイトルと体裁の本がありました)全体が成人向けなのかは他を読んでいないためちょっと分からないのですが、社会人としてフルタイムで働きながら資格などのために勉強する人を想定している作りになっています。

 

ただ、勉強する時間の捻出の方法については中高生にも十分応用できるものだなぁと感じました。

スマホや百均の雑貨などのツールを活用した勉強法がたくさん詰まっているので本人のやる気さえあれば役立つハックがたくさん詰まっている感じですね。(それが一番ハードルが高いんですが…)

 

想定されている年齢が高く、学校も予備校や資格取得のためのビジネススクールなどを想定して書かれているため、講義に関してやツール活用については年齢が低い層だとすぐに役立つハックはあまり多くないかもしれません。

(もちろん参考にできるものもあるとは思いますが)

 

 

 

「そう、それ!」と思う章立ての妙

第1章はスケジュールと段取りの対策。

第2章は過集中と寝起きの対策。

第3章は理解力と集中力の対策として授業を受けやすくなるハックを。

第4章は継続力と環境づくり対策。

第5章は忘れ物とプレッシャー対策として試験本番に向けた不安解消のノウハウを。

 

網羅されているトピックはどれも当事者であれば「そうそう、それ!」と膝を打つようなものだなぁと思いました。

次男の学習に向けた困難もおおかた含まれているように思います。

 

見やすくまとめられた、見開き2ページごとのハック

それぞれの章の中にさらに3〜10くらいの小見出しがあります。

「スケジュールが立てられない」

「何から手をつけていいか分からない」

「講義を行きながらノートを取れない」

「勉強中ついスマホを見てしまう」

「大事な試験に忘れ物をしてしまう」

など「あぁそれそれ…」とため息をつきたくなるような具体的な困難が挙げられ、それぞれのトピックについて見開き2ページにイラストを添えてまとめられています。(内容量が多く、2ページ以上になっているところもあります)

 

1つの小見出しにつき事例・原因・解決法・工夫イラストがそれぞれ書かれており、ADHDASDそれぞれの特性がどう影響しているのかの解説や、それぞれの特性をカバーするための対策が紹介されています。

 

具体的に紹介されているツールやアプリ

スケジュール管理の対策のひとつとしてGoogleカレンダーが紹介されているのですが、設定の仕方が画像付きで丁寧に紹介されています。

やり方がわからなくなったからめんどくさくてやめちゃう、という経験のある当事者としては非常にありがたい図解だと思いました。

 

他にも学習時間のばらつきを可視化するためのツール「toggl(トグル)」iPhoneNight Shift(設定した時間に明るさを下げたり色調を変えたりする機能)も同様の図解が掲載されています。

 

Androidでのやり方も載せて欲しかったなぁと、そこはちょっと残念ポイントです。

 

他にもEvernoteの活用法や学習アプリなども紹介されています。

私も活用していて足を向けては寝られない「リマインくん(LINEを使ってアラートを鳴らしてくれるツール)」も丁寧な設定手順付きで紹介されていました。

 

また、デジタルツールだけでなく秒針の音が静かな掛け時計や速度を選んで再生できるICレコーダー、耳栓、お風呂で読める防水の参考書など、アナログツールも色々と紹介されていて、試してみる価値ありなグッズがたくさん掲載されていました。

 

いいなぁと思った、質問のやり取り事例

これいいなぁと思ったのが、講義の後に質問をしにいくためのやり取り事例です。

 

次男も苦手なことなのですが、気になったことを質問するハードルがすごく高くなってしまったりしますよね。

聞き方をミスって先生にうまく伝えられなかったり、聞きたいことをうまく話せなかったり。

 

具体的な原稿を自分で作ってパターンを想定しておくことで、その場で困らずやりとりをする準備ができていいなぁと思いました。

 

第3章の「講師に質問できない」のところに質問テンプレートの例が載っています。

 

おわりに

本書の裏表紙に書かれている「勉強に関する困った」がなくなる!というキャッチコピー、読み終えた感想として「そう言える程度の内容は詰まっているな」と感じました。

 

ただ、やっぱり保護者としての感想は「この本の内容を実践しよう!と思えるまでが難しいんだよ…」というところですね。

 

本人に学ぶ意欲があり、なんとかしたいと思っていて、方法を模索している当事者にとっては自分に合った学び方を知るための情報がぎゅうぎゅう詰まった一冊だなぁと思います。

 

思春期の息子にこの本をハイと渡したところで実践への道は遠そうだなぁ…とは思うので私の手元で温めておいて、必要なターンが来たところで役に立つといいなぁ…という感じでしょうか。(あとは自分が勉強したくなったときや仕事に集中したいときに活用できるかもしれない)

 

内容としては特にデジタル関連の話題に関してはどんどんアップデートされていくものなので多分1年も経てば内容が古くなってしまうんだろうなぁとは思います。

 

そういう意味で、購入を考えている方は早ければ早いほど役に立つ一冊かもしれませんね。

街ゆく「わたしの推し」たちの話。

はてなのお題として「わたしの推し」というテーマが上がっていた。

長男を産んで17年あまり、末子を産んで11年あまり、わたしの周りのママ友と呼ばれる人たちが推しを愛でている様を日々のTwitterで眺めている。

 

最近一番多いのは某韓国の男性アイドルグループのような気がする。

ジャニーズを長年愛している友もいる。

 

なぜ私たち世代の女性たちが推しに心を寄せたくなるのかを私は知っている。

子供たちが少しずつ成長していく中で「手を離さねばならない」現実に直面するからだ。

 

私たちが手を出さなくては死んでしまう小さな生き物だった彼らが、自分の足で歩き、自分の言葉で主張し、そして自分の道を歩き始めていく。

 

彼らよりも長く生きている上、彼らを色々なことから守りたい私たちはつい、彼らの人生に介入したくなる。

彼らの人生に転がっているたくさんの石を見つけ、取り除き、彼らを守りたくなる。

 

小さい頃に自宅のリビングでそうやって彼らを守ったように。

公園で道路で、そうやって彼らを大切に守ってきたように。

 

でも、どの時点からなんだろう。

私たちのその守りたい気持ちは、時に彼らにとっての石のひとつになり始める。

 

嫌がられると分かっていても心配でつい要らぬ口を出してしまう。

危ないと分かっていても見て見ぬ振りをるしかない時もある。

子によっては自分から無理に手を離さないと互いに依存しすぎてしまうと思ってこちらから意識して離れる必要があることもある。

 

そんな、彼らの自立を喜ぶべきだと分かっていてもどこか切なく寂しい気持ちを埋めてくれるもの、それが私たちにとっての「推し」の存在なのだろうなと思う。

 

さて、私もそんな「推し」を必要とする人生のターンに差し掛かっている。

 

友人たちのようにいわゆるアイドルや俳優に熱を上げることを考えてもみたのだけれど、どうもしっくりくる出会いがなくて今に至る。

「推し」の存在に救われてきている娘から「推しは作るものではなく、落ちるものだからね」という名言を吐かれたので無理に誰かを選ぶのはひとまずやめにした。

 

それでもなんとなく暮らしている日常の中で、なんとなく「推し」というのはできるものなのだな、と感じている。

私の「推し」たちは今、私が暮らす街の中にいる。

 

1人目は毎日犬の散歩で通る道すがら、旗当番に交代で立っているらしい他校の保護者の中の、あるお父さん。

私の友人の配偶者であり、また子ども同士も仲良しでもある。

f:id:suminotiger:20211229133104j:plain

こーちゃんに「旗当番のお父さん描いてや」と頼んだイラストです
(あくまでもイメージです)

 

知らぬ仲ではないお父さんは、旗当番をしながらこちらに気づくといつも満面の笑みで手を振ってくれる。(ご本人はもっと堅気な感じのシュッとした優しい方です)

異性としての好意とは全く違うのだけれど、こちらに笑顔で手を振ってくれて、それだけでなんだか嬉しくなる。

何家庭で順番が回っているのか知らないので、いつそのお父さんに出会えるかの法則が全くわからない。

友人に聞けばいいのだけれど、あえてそれは聞きたくない。

その辺のガチャ要素もまた、会えた嬉しさを増す要素なのかもしれない。

 

2人目は高校生の息子の同級生のAくん。

暑い日も寒い日も自転車で通学をしている(うちの子もそうなんだけど)彼は、私を見かけるとニコッと笑って爽やかに頭を下げてくれる。

ただそれだけのことなのだけど、たまに出会うとやっぱり嬉しくて、今日も頑張ろう的な謎のモチベーションになっているのは事実である。

 

3人目は末っ子の小学校に通う低学年のBくん。

なぜかはわからないけれど彼が入学してきた頃から、その落ち着きのなさと屈託のない笑顔に私はノックアウトされ続けている。

先日は通学路の途中でなぜかランドセルを放置していたらしくお兄ちゃんに怒られながら歩いているところに私が通りかかると「(三男)君のお母さんやん!」とやはり満面の笑みで手を振ってくれた。

多分年末ジャンボ宝くじに当たってもこんなに嬉しくないかもしれないと思う。

たったその出来事だけでニヤニヤが止まらなくなるほど嬉しくて、何度あの笑顔を反芻してはニヤニヤしたかわからないくらい、本当に可愛い。

 

4人(?)目はいつも犬の散歩をする川原でたまに出会う猫の「うし」。

白と黒のマダラ模様だから、と「うし」と名付けたのは娘。

猫の名前としてはいささか不適切な気もするのだけど、見かけたときに呼ぶと甘えた声で鳴きながらすり寄ってくるので本人も満更ではないのかもしれない。

「うし」は鈴のついた赤い首輪をしているので野良ではないらしく、川原では滅多に見かけない。

川原には時々散歩をしにきているのかもしれない。

ごく稀にしか出会うことがない「うし」に川原で出会えるとなんだかすごくいいことが起こったような気がする。

私にとってはかなりの激レアな「推し」のひとり、それが猫の「うし」。

 

私には挙げた他にも何人かの推しが存在していて、車を走らせながら「推し」に出会うと歓喜の声をあげる私に助手席の娘がよく呆れている。

 

よその旦那さんや息子さんを勝手に推しとして愛でるのは倫理的によろしくないのだろうかと思ったりもしたのだけど、先日の朝、旗当番の推しお父さんの妻である友人からLINEが入ってその悩みは一蹴されることになる。

 

「さっき通勤途中に登校中の次男くんに会ったよ!私見て笑顔で会釈してくれてすごく嬉しかった!今日も頑張れる!」

 

私にとって手を焼いて仕方ない次男が彼女のモチベーションを支えるお役に立ったというのは親としてなんだかとても嬉しくて、その日の朝のコーヒーがいつもよりちょっと美味しくなった気がした。

 

うちの子たちもどこかで誰かの「推し」としてお役に立っているのかもしれない。

誰かのモチベーションを上げる一助となっているのかもしれない。

もしかしたらかつての細面美男子の面影を失い巨大化したうちの夫や、初老の私や、うちの保護犬出身のおじいちゃんワンコも、誰かにとっての「推し」として、知らぬ間にお役に立っているのかもしれない。

 

冬休みは登校途中の「推し」に会えないなぁとちょっと寂しく思いつつ、一番身近な「推し」である愛犬にせっせとおやつを与える、そんな年末年始の休みがいよいよ始まりました。

スポンサードリンク